底本:『新人』十六巻一号(1915年1月)
筆耕者(=当ブログ管理者)メモ
原文のままとしてあるもの
而(しこう)して
動(やや)もすれば
吾々(われわれ)
現(あらわ)される:表とするのが適切であると思われる場合でも
外(ほか):他とも書ける場合でも
現代の用法に直したもの
井゛=ヴィ
敢「え」て
明「ら」か
極「め」て
心持「ち」
考「え」 など送りがな
総て→全て
始めて→初めて:現在の用法で適切な場合に限り
原文傍丸点部は太字に直している(エディタの都合)
冒頭文「三通り」の部分は判読できないが、文脈上適切になるように補っている。
本文ここから
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美術批評の意義 文学博士 深田康算
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美術に関する評論や研究はおよそ三通りあると普通考えられている。一つは美術の原理に関する議論であって、芸術学とかあるいは美学などと呼ばれている学問に属する研究、ないしは美術はすなわち美の完全なる実現であるという思想から、美の哲学が畢竟美術の根本原理を闡明するのだと言われる。一つは芸術史的研究、一つは現代の美術に関する時事評論である。美術展覧会が開かれる季節になるとこの時事評論とも言うべき種類が多くの新聞や雑誌に発表せられる。美術批評と言うことは一体この種の時事評論のみを意味するはずはないと思われるのであるが、美学や美術史の研究は美術評論とは言われないで、ただ現代の作品に関して優劣を論議することが美術批評という名称を独占しているようである。而してそう考えるのも一応無理はない。何故ならば美術史の研究などになると芸術的評価の方面は動もすれば閑却されて単に一般に曖昧に美術と呼ばれる現象の歴史的時所の決定のみに眼を注ぐ。よしやその研究の中には自ら批評が含まれているにもせよ、その批評の標準は多くは歴史的事実の詮索のためであって、芸術的価値そのものを決定する標準ではない。美術史を研究したからと言って、吾々の美的趣味とか、芸術作品に関する芸術的理解というものには決して自ら深くなるはずもない。芸術学もしくは美学の研究もまたこれと似通った性質を持っている。普通の人々は美学の研究に力を注いだならば芸術に関する理解が得られ、趣味が養われ得るかのように思う。それ故に美学の立場から言うとこの作品は好いとか、芸術学の研究の結果芸術作品の標準はかのごとくでなければならぬとかいうような議論を吾々はしばしば耳にするのである。美学や芸術学が
批評の標準を建設する能力もなく、創作の規範を制定する興味も持っていないということを明らかに考え至った者は、学問的研究に向かって芸術作人に関する芸術的批評の標準を要求する愚を敢えてしないであろう。したがってこれらの研究を美術批評と呼ばないのが正当であると考えるであろう。芸術に関する芸術的批評(芸術的価値の理解)は人生に対する人生的批評と同じく、学術的研究の興味とは関係ない者であると言うべきである。芸術批評は、それ故に吾々にとって単なる知的興味の対象となってしまった(もしくは吾々がそうしてしまった)ものについての考察には現れてこない。むしろ吾々にとって生きることの興味に関係している全ての択取捨において発露してくるはずである。そこで現代の作品に関する優劣の批評がすなわち真の意味においての美術批評の面目を占有しているという趣を呈してくるのである。
言うまでもなく知的興味もまた吾々の生きることの興味である。もしくはこの興味に基づいてかの興味が立っているのである。吾々の生きるのは現代と呼ばるる今のみにおいてではない。美学の原理的考究も美術史的詮索も美術批評なしには全く無意味なものたるに過ぎない。芸術学や美術史研究の対象としては単なる知的興味に訴えて存在しているのではない。ただこれに対して吾々が生きることの第一義からしばらく離れて知ることの第二義的態度に立ったとき、吾々自分がこれを知的興味の対象としてしまうのである。それであるからこの同じ関係は現代の作品についての美術批評の態度にも同じように現れてくる。現代の作品の優劣を評価するときにその批評が、その批評態度がやはり第一義から第二義に堕して真の意味における批評たりえるか、いわゆる美術批評なるものは果たしていか程の価値を持ち、いか程の意義を有しているのであるか。
二
美術批評がもし単に各個人の好悪に従い趣味に依って、いわば勝手にいくらかの作品の中から優劣の度に準じて拾い出された結果を記述したものであるなら、そういう批評は選択に基づいたという点においては批評と言えるであろうが、ただ各個人の意見に過ぎないものであって何らの意義も権威もないものではないか。しかしまたその選択の標準を各個人の趣味以外に求めて例えば過去の傑作から抽象し排列した一般的普遍的土台の上に立って美学批評を試みるとするなら、それもまた過去の傑作なるものをいかにして選択するかを考えてみると、やはり一つの意見に過ぎないのではないか。美術批評家の言論を聴いていると、その形式においては大抵この二つの意見の発表に他ならぬようである。そこでこれらの批評については吾々は自分の気に入らない批評は、あれは批評家独りだけの独断に過ぎないとして軽蔑してしまうか、もしくはあれは古い型に捕われている議論であると言って顧みないか、何かの理由で捨ててしまうのが常である。もちろんしかる場合に捨て去る者が必ず正しとは言えない。ただ一人の意見であるからという理由は評価においては何らこれを捨て去るの根底とはならない。吾々がこれを捨て去るのも実は形式の上においてはただ吾々一家の意見たるに過ぎないことは、捨て去られるものと同様である。また過去の標準をとっていわゆる古い型に捕われていると軽蔑されるのも、実は新しい意味を要求していることがある。英の批評家ルドヴィシ(Ludovici)がニーチエの芸術観に基づいてエジプト芸術をもっていわゆる『支配者の芸術(ルビ:ルーラーアート)』と推賞しているのなどはこの好い例である。古い新しいの区別も実は正しい正しくないの議論であり、正しい正しくないの議論になれば多数少数で決定することはできない。一人の意見がただその一個人の特殊な偶然な趣味から出たというとき、また一時的な批評と言われるものが単に過去のある流派に養われた趣味を代表するに過ぎぬというとき、それらに権威のないという理由は事実上一般の人々の一致しているか否かが問題ではなくして、法理上一般の人々が承認しなければならぬものであるか否かが問題であるからである。
三
美術作品に関して自身作家もしくは美術家でもなく、またいわゆる専門的批評家でもない吾々素人が意見を構える態度を検査してみるとそこに奇妙な事実を発見する。それは外でもない、一方においては吾々が審査官であるという態度をとっていると共に、他方においては吾々は門外漢であると自認していることである。誰でも常識を持っていると考えているように誰でも一角(ルビ:かど)の批評眼は備えている。そして常識があたかも天賦ででもあるように、何時養成せられたともなく何に依って矯正せられるともなく、それ自らの権利を主張していると同じく、芸術観照者の批評はそれ自ら最高であり最後であるかの趣を呈している。観照はすなわち批評である。観照者を除いてどこに批評家がいよう。各個人はかくして自家の意見を権利上唯一無二のものと見ている『趣味に関しては議論することはできない』という警句はすなわちこれを言い現しているのである。もし吾々の芸術批評における態度がこの一面だけであるならば、美術に関しては各個人の印象的批評より外の批評は成り立たないと断言すべきである。しかし吾々の批評の態度には言わば傲慢なるこの一面に対して他の一面がある。この表には必ず裏がある。内側からこれを窺って見るとそこには極めて謙遜な、謙遜と言うよりは卑屈と呼ぶ方がむしろ適切であるところの心持ちが潜んでいる。すなわち自分はそう思うより外はないが実は自分は美術に関しては門外漢であると辞任していることである。──この種の表裏は時としては別々の個人に分担せられて、吾々は表ばかりの人に出会うことがありまた裏ばかりの人を見ることがある。美術評論の最も従順なる読者もしくは聴衆には裏ばかりの人が選ばれる。批評家としての役目は言うまでもなく表ばかりの人が進んで引き受けている。
吾々素人が美術に関して批評を試みるときに、吾々の態度の中に同棲しているこの二面には自らそれぞれ是認せしめるところの理由がその根底に与えられている。而してその同じ理由は時としては印象評論の弁護の根拠となり、時としては技巧の秘密を握っているところの専門家以外には美術について容嘴するの権利なしという考えを成り立たしめる。もし芸術作品が何らかの意味において吾々の生活に役立つものであると考えられるならば、好悪に基けて自己を最高の審査官であると考えるはずはなくなる。もしまた芸術作品が特殊の技能にその存在を負うのでなく、その価値が決して特殊の技能に依って定めらるべきではないと考えられるならば、吾々素人は必ずしも門外漢として自ら卑しむには当たらないはずである。芸術作品が一般に考えられているように各個人の利害に、生活に関係を持っておらぬならば趣味に関して吾々は何ら論議すべき必要がない。したがって自己の好悪を最終の標準として選択し取捨するのが正当である。芸術作品はそが観照者に与える印象を外にして何ら存在の理由がないという議論はしばしば主観主義の美学者の手で構成されるその奇形を除けば、確かに真理であると言うべきであろう。吾々が見ることもなる味わうこともできぬ作品に関してはいかに多くの人々がこれを称賛したとて吾々が事故に正直なる限り何らの関係もないはずである。びは客観的属性ではなく主観的評価であるという半ば正当なる考えや、自己に忠実であれという道理至極な道徳的精神は、かのごとくにして芸術観照は享楽であるという考えと結びついて、各個人の好悪が芸術的価値の標準であるという普通人の信念を固くせしめる。美は無関心的であるという学説の俗化や、芸術の目的は美の実現にあるという思想の浅薄なる理解がこれに伴うに至ればいよいよ芸術批評上の虚無主義が勢力を得るようになる。而して芸術作品が一般公衆に展覧せらるる機会の与えられたることは、その結果以外の弊を生じ芸術作品の本質に関する考察は顧みられないで、ただその皮相なる解釈と非芸術的なる批評とが世論を指導するようになる。それ故に美術批評が本当の意味で批評たり得るためには、芸術作品が一方においては純主観的な評価の上に立つ趣味の判断に規定せられているに拘らず、何らかの意味において普遍的認識に関係のあるものなることを看取し力説しなければならぬ。而してこれがためには芸術が理論的認識とは全く性質を異にする、しかもなお認識と正当に呼ばるべき活動に根ざしていることを洞察することを必要とする。芸術作品が一般に考えられているように、ある特殊な技巧と才能とに基づくということはこれに依りて深い意味を有するに至るであろう。かくの如くにして深い意味を帯びるに至らなければ単なる技巧や才能は技巧や才能としては何らの価値もない。而してそういう特殊な技巧と才能とに基づくとせらるるならば、趣味に関してはただ少数の専門家に盲従するより外はないことになり終わるであろう。
吾々は素人としての美術批評の態度に現れている矛盾的な二面の心持ちを検査することに依りて、美の批評が一方においては各個人の勝手なる評価に止まり得ないこと、その評価に主観的ならざる普遍的なる要素が要求せられつつあることを見、而してその普遍的なる要素がある意味においては技巧に結びついていることを認めなければならない。技巧が芸術作品の存在の理由だという考えは、芸術作品がその特色を感覚的形式の上に持っているという思想に依りて、何が現されているかよりも、いかに現されているかが大切であるという思想に依りてなお一層強められる。しかし技巧に全てを帰する考えに対しては、吾々観照者が趣味の最終の審査官であるという一面の自覚が厳然として工事を申し立てている。芸術作品は感覚的形式を離れては存在しない、美は形式にあるという考えの不道理なことは多言を要しないで明らかである。それ故に一方においては各個人の印象の上に立っておりながらこれを超絶しているもの、他方においては技巧の上に立っておりながらしかもこれを超絶しているもの、そういう要素を捕えなければ美術批評は美術批評として成立し得ないことを知るのである。特殊な感興と特殊な技巧とを超美した言わば『純人間的』なある要素を見出してこそ初めて全ての芸術評価の標準が可能なのである。而してこれがためには吾々が仮に芸術的認識、もしくは芸術的人生観と名づけるものを捕えなければならぬ。この種の認識の存在は吾々はこれを否定することができない。しかしそれがいかなるものであるかに至っては吾々は今日未だ多くを語り得ない。それ程吾々にとってこの認識は一種特異な性質を持っているように思われる。それが他の認識といかに異なっているかを消極的に指摘することは吾々にもできる。またこれを試みた人は少なくない。しかしそれがいかなる性質のものであるか、いかなるそれ自身の論理を有し、それ自身の法則を有しているのであるか、積極的には吾々は未だこれを規定することができない状態に置かれている。吾々の美術批評はその最も幸運な場合においてもなおこの芸術的認識の断片的捕捉の上に立っているに過ぎないのである。そこに多くの美術批評が一方においては議論としてやや傾聴するに足るように見えても、吾々には皮相と思われいよいよ理を尽くしていよいよ真に遠ざかっているとの感を抱かしめる所以が潜んでいるのであり、一方においては美術批評が芸術的理解にとってほとんど全く何らの関係もないという事実を現出しているのであろう。
吾々の結論はこの場合において極めて不生産的である、全く消極的である。しかしながらこの不生産的な消極的な洞察もそれ自ら決して無意義ではあるまいと信ずる。少なくとも芸術批評の態度の根本的変改を要求する点において、少なくとも芸術批評の態度の自省を促す点において、重要なる第一歩であると信ずる。
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