2021年10月30日土曜日

深田康算「芸術批評」現代仮名遣い版

底本:『制作』一巻三号・二年二月号(19192)


筆耕者(=当ブログ管理者)メモ

原文のままとしてあるもの

 而(しこう)して


 「新プラトー主義のプロチノス」は現代風に書くと「新プラトン主義のプロティノス」(検索用)
 「ミケランヂエロ」は「ミケランジェロ」


現代の用法に直したもの

 
 井゛=ヴィ


 始めて→初めて:現在の用法で適切な場合に限り

 先つて先立って のように漢字を補った


 原文傍丸点部は太字に直している(エディタの都合)


本文ここから

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芸術批評 深田康算


 バルザックのある小説の中にでもあったかと思う、私は「批評家とはなり損ねた作家である」と言うような詞の記されてあったのを記憶する。芸術批評家の地位は、昔からして芸術家自身からは勿論のこと、一般公衆から、また彼れの同業者である他の文学者達からさえ好くは思われず、美学者美術史家などからさえ軽んぜられるのが常であった。芸術家自身と公衆とは、それぞれ別の理由からではあるが、批評家の仕事を目して余計なる指し出口ではないかと考え易い。私自身の好悪を定めるのに何にも他人の舌を借用する必要がないと、公衆は腹の中で思っている。私の作品を批評することはできても、真似することさえもできはしまいと芸術家は高をくくっているに相違ない。美学者や美術史家が芸術批評家の言論に対して軽蔑の眼を以て見ているのは、言うまでもなく、彼らが永遠の立場からして、彼らの目から見てたかだか一時的権威を有し得るに過ぎないところのものに対するからである。それは過ぎ去った時代に一時勢力を有した評論の価値が今では全く無に等しくなっているという事実を、沢山に見ているいわゆる智者の止むを得ざる立場からなのである事実「価値の顛倒」は、その例証を美術史及び文学史における程それ程著しく他に見出すことができないとも言えよう。

 これらの二重もしくは三重の、しかもそれぞれある度まで正当なる、軽侮の間に立って、芸術批評家は果たして自己の存在の権利を確立することができるであろうか。芸術批評は文学の中最も新しき一つの種類(ルビ:ジャンル)として果たして特殊の分野を占有し得るのであろうか。

 芸術批評が、美学上の研究や、美術史的詮索から独立したものとして、而して一方においてはいわゆる公衆の単なる好悪の声高き代弁者としてではなく、他方においては芸術家自身のいわゆる黒人(ルビ:くろうと)評の受け売り──批評家自身が創作家である場合を除くならば厳密に言う技巧上の得失に関する評論は畢竟受け売り以上に出ることはできない──としてではなく、確実なるそれ自らの地位を文化の中において占め得るためには、私の見るところでは、まず極めて重要なる──したがって極めて困難なる幾多の問題が解決せられなければならない。而してこれらの問題がいかなる種類のものであるかを十分に吾々に語っているところのものは、芸術批評の歴史である。もしくは芸術批評がいかにして(その厳密なる意味において)古代ギリシアには見出されず、中世期にも見られず、文芸復興期においてようやくわずかにその曙光が認められ、而して近世期に至って初めて燦然として現出するに至ったかの歴史である。もしいわゆる公衆の単なる好悪がすなわち芸術批評であるとするならば、批評はすでに制作と共に生まれたと言える、見方に依りては制作に先立ってすでに存在したとも言える。また黒人評が唯一の真実なる批評であり、語る者は作る者でなければならぬとするならば、そこでは人々が一般に極めて多弁であった(したがって芸術家もまた実シグルバレンスに能く弁じた)ところのギリシアは、また同時に最も発達せる芸術批評の国でなければならなかったであろう。なるほどオスカー・ワイルドは、その「批評家」の第二対話において、ギリシアにもまた今日のごとく展覧会もあった、芸術批評家もおったと面白くも想像している。しかし事実は「芸術批評」をその厳密なる意味に解する者にとってギリシアに美学者と美術史家との存在を認めしめるけれども、全く一人の芸術批評家をも一篇の芸術批評をも発見せしめない。芸術批評の概念を弛めて、これを広く芸術に関する論議と解するならば、公衆の下した是非、芸術家の吐いた警句、思想家学者の述べた芸術論にして、ギリシアから吾々に伝え残されたるものは中々に多い、多いばかりでなくして長く吾々の心に銘するに足るものが少なくない。しかしながら、これらのものは、畢竟ギリシア民族が芸術について、ある意味において、深い興味を有していたことの証拠であり、また彼らほど芸術的でもあった民族はなかったことの証拠であるとは言えるにしても、芸術批評の意義が彼らの間に理解されていたことの証拠とはならない。厳密なる意味において言う「芸術批評」とは、私の見るところに従えば、いわゆる黒人がではなく、素人が、過去のではなくその現代の芸術作品に関して述べたところの言説である、そうしてそれは芸術家の芸術家としての人格の立場から見られたものでなけらばならない。この三つの特徴を標準として、ギリシアのいわゆる「芸術に関する文学」を渉猟して見るならば、これに該当するところのものの一篇をだに見出し難いことを吾々は発見するであろう。そうして、それがまた誠に当然でなければならぬことに吾々は気がつかなければならない。なぜならばギリシアにおいては芸術家が芸術家としてはついに尊敬せられなかったから。

 芸術が人生においていかなる地位を占めいかなる意義を有するであろうかの考察は、芸術そのものについての真の理解なしにも着手せられ得るであろう。過去の芸術に関する研究は、吾々のものとしての芸術を要求する熱望なしにも取り扱われ得る。芸術批評が、真面目なる態度を以て当代の芸術作家を取扱い、その意義と地位とを解釈し得る絶えには、吾々はまず芸術家を芸術家として尊敬することを知り、尊敬することの正当なる所以を知らなければならぬ。而してこの認識に到達するためには、第一には芸術家の活動が外的手工的労作でないことの確認、換言すれば芸術家を職工であると見做す古い偏見からの脱却が必要である。芸術批評史の上でこの認識が初めて獲得せられた著しい例は、古代ギリシアの末期に属する新プラトー主義のプロチノスにおいてであったと考えられる。そうして中世期において一度ほとんど全く見失われたこの認識は文芸復興期に至って再び獲得せられ、そこで初めて永遠に確立せられるに至った。レオン・バチスタ・アルベルチやレオナルド・ダ・ヴィンチの書論、ミケランヂエロの人格、これらはこの認識を確立した強い因子とも見るべきものであり、またこの認識なしには全く不可能なる現象と言うべきであろう。レオナルドの書論などに現れている学術と芸術との間及び各芸術間の位争いの論議のごときは、もとよりそれとしては必ずしも特に吾々の興味を引くに足らない問題であるが、芸術(特に絵画)を五箇のいずれの精神的仕事に比しても位高きものと見做すその見方の故に深い意義を有して有る。このごとき見方の確立によって初めて吾々は、芸術と芸術家との意義についての正当なる洞察を得、単に過去のものとしての芸術に関する詮索や、人生における単なる方便としての芸術に関する考察から離れて、実に吾々の、精神的事業の一つの特殊なる力として芸術を考えることが可能となったのである。而してこの地盤の上に「芸術批評」は初めて生まれたのであった。
 芸術批評の存在、したがって芸術批評家なる一階級の存在は、そうであるからして、むしろ芸術がそこれに至って初めて真に芸術として取り扱われるに至ったことを示すところの唯一の証左であるとさえ言うべきものである。芸術批評が、新しき──もしくは最も新しき──一つの文学の種類として現出するに至ったことの近世期に属する所以は偶然では決してない。


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本文ここまで

深田康算「美術批評の意義」現代仮名遣い版

底本:『新人』十六巻一号(1915年1月)


筆耕者(=当ブログ管理者)メモ


原文のままとしてあるもの

 而(しこう)して

 動(やや)もすれば
 吾々(われわれ)

 現(あらわ)される:表とするのが適切であると思われる場合でも 
 外(ほか):他とも書ける場合でも



現代の用法に直したもの

 井゛=ヴィ

 敢「え」て
 明「ら」か
 極「め」て

 心持「ち」
 考「え」 など送りがな


 総て→全て
 始めて→初めて:現在の用法で適切な場合に限り


 原文傍丸点部は太字に直している(エディタの都合)
 冒頭文「三通り」の部分は判読できないが、文脈上適切になるように補っている。




本文ここから

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美術批評の意義 文学博士 深田康算




 美術に関する評論や研究はおよそ三通りあると普通考えられている。一つは美術の原理に関する議論であって、芸術学とかあるいは美学などと呼ばれている学問に属する研究、ないしは美術はすなわち美の完全なる実現であるという思想から、美の哲学が畢竟美術の根本原理を闡明するのだと言われる。一つは芸術史的研究、一つは現代の美術に関する時事評論である。美術展覧会が開かれる季節になるとこの時事評論とも言うべき種類が多くの新聞や雑誌に発表せられる。美術批評と言うことは一体この種の時事評論のみを意味するはずはないと思われるのであるが、美学や美術史の研究は美術評論とは言われないで、ただ現代の作品に関して優劣を論議することが美術批評という名称を独占しているようである。而してそう考えるのも一応無理はない。何故ならば美術史の研究などになると芸術的評価の方面は動もすれば閑却されて単に一般に曖昧に美術と呼ばれる現象の歴史的時所の決定のみに眼を注ぐ。よしやその研究の中には自ら批評が含まれているにもせよ、その批評の標準は多くは歴史的事実の詮索のためであって、芸術的価値そのものを決定する標準ではない。美術史を研究したからと言って、吾々の美的趣味とか、芸術作品に関する芸術的理解というものには決して自ら深くなるはずもない。芸術学もしくは美学の研究もまたこれと似通った性質を持っている。普通の人々は美学の研究に力を注いだならば芸術に関する理解が得られ、趣味が養われ得るかのように思う。それ故に美学の立場から言うとこの作品は好いとか、芸術学の研究の結果芸術作品の標準はかのごとくでなければならぬとかいうような議論を吾々はしばしば耳にするのである。美学や芸術学が

批評の標準を建設する能力もなく、創作の規範を制定する興味も持っていないということを明らかに考え至った者は、学問的研究に向かって芸術作人に関する芸術的批評の標準を要求する愚を敢えてしないであろう。したがってこれらの研究を美術批評と呼ばないのが正当であると考えるであろう。芸術に関する芸術的批評(芸術的価値の理解)は人生に対する人生的批評と同じく、学術的研究の興味とは関係ない者であると言うべきである。芸術批評は、それ故に吾々にとって単なる知的興味の対象となってしまった(もしくは吾々がそうしてしまった)ものについての考察には現れてこない。むしろ吾々にとって生きることの興味に関係している全ての択取捨において発露してくるはずである。そこで現代の作品に関する優劣の批評がすなわち真の意味においての美術批評の面目を占有しているという趣を呈してくるのである。

 言うまでもなく知的興味もまた吾々の生きることの興味である。もしくはこの興味に基づいてかの興味が立っているのである。吾々の生きるのは現代と呼ばるる今のみにおいてではない。美学の原理的考究も美術史的詮索も美術批評なしには全く無意味なものたるに過ぎない。芸術学や美術史研究の対象としては単なる知的興味に訴えて存在しているのではない。ただこれに対して吾々が生きることの第一義からしばらく離れて知ることの第二義的態度に立ったとき、吾々自分がこれを知的興味の対象としてしまうのである。それであるからこの同じ関係は現代の作品についての美術批評の態度にも同じように現れてくる。現代の作品の優劣を評価するときにその批評が、その批評態度がやはり第一義から第二義に堕して真の意味における批評たりえるか、いわゆる美術批評なるものは果たしていか程の価値を持ち、いか程の意義を有しているのであるか。



美術批評がもし単に各個人の好悪に従い趣味に依って、いわば勝手にいくらかの作品の中から優劣の度に準じて拾い出された結果を記述したものであるなら、そういう批評は選択に基づいたという点においては批評と言えるであろうが、ただ各個人の意見に過ぎないものであって何らの意義も権威もないものではないか。しかしまたその選択の標準を各個人の趣味以外に求めて例えば過去の傑作から抽象し排列した一般的普遍的土台の上に立って美学批評を試みるとするなら、それもまた過去の傑作なるものをいかにして選択するかを考えてみると、やはり一つの意見に過ぎないのではないか。美術批評家の言論を聴いていると、その形式においては大抵この二つの意見の発表に他ならぬようである。そこでこれらの批評については吾々は自分の気に入らない批評は、あれは批評家独りだけの独断に過ぎないとして軽蔑してしまうか、もしくはあれは古い型に捕われている議論であると言って顧みないか、何かの理由で捨ててしまうのが常である。もちろんしかる場合に捨て去る者が必ず正しとは言えない。ただ一人の意見であるからという理由は評価においては何らこれを捨て去るの根底とはならない。吾々がこれを捨て去るのも実は形式の上においてはただ吾々一家の意見たるに過ぎないことは、捨て去られるものと同様である。また過去の標準をとっていわゆる古い型に捕われていると軽蔑されるのも、実は新しい意味を要求していることがある。英の批評家ルドヴィシ(Ludovici)がニーチエの芸術観に基づいてエジプト芸術をもっていわゆる『支配者の芸術(ルビ:ルーラーアート)』と推賞しているのなどはこの好い例である。古い新しいの区別も実は正しい正しくないの議論であり、正しい正しくないの議論になれば多数少数で決定することはできない。一人の意見がただその一個人の特殊な偶然な趣味から出たというとき、また一時的な批評と言われるものが単に過去のある流派に養われた趣味を代表するに過ぎぬというとき、それらに権威のないという理由は事実上一般の人々の一致しているか否かが問題ではなくして、法理上一般の人々が承認しなければならぬものであるか否かが問題であるからである。



 美術作品に関して自身作家もしくは美術家でもなく、またいわゆる専門的批評家でもない吾々素人が意見を構える態度を検査してみるとそこに奇妙な事実を発見する。それは外でもない、一方においては吾々が審査官であるという態度をとっていると共に、他方においては吾々は門外漢であると自認していることである。誰でも常識を持っていると考えているように誰でも一角(ルビ:かど)の批評眼は備えている。そして常識があたかも天賦ででもあるように、何時養成せられたともなく何に依って矯正せられるともなく、それ自らの権利を主張していると同じく、芸術観照者の批評はそれ自ら最高であり最後であるかの趣を呈している。観照はすなわち批評である。観照者を除いてどこに批評家がいよう。各個人はかくして自家の意見を権利上唯一無二のものと見ている『趣味に関しては議論することはできない』という警句はすなわちこれを言い現しているのである。もし吾々の芸術批評における態度がこの一面だけであるならば、美術に関しては各個人の印象的批評より外の批評は成り立たないと断言すべきである。しかし吾々の批評の態度には言わば傲慢なるこの一面に対して他の一面がある。この表には必ず裏がある。内側からこれを窺って見るとそこには極めて謙遜な、謙遜と言うよりは卑屈と呼ぶ方がむしろ適切であるところの心持ちが潜んでいる。すなわち自分はそう思うより外はないが実は自分は美術に関しては門外漢であると辞任していることである。──この種の表裏は時としては別々の個人に分担せられて、吾々は表ばかりの人に出会うことがありまた裏ばかりの人を見ることがある。美術評論の最も従順なる読者もしくは聴衆には裏ばかりの人が選ばれる。批評家としての役目は言うまでもなく表ばかりの人が進んで引き受けている。

 吾々素人が美術に関して批評を試みるときに、吾々の態度の中に同棲しているこの二面には自らそれぞれ是認せしめるところの理由がその根底に与えられている。而してその同じ理由は時としては印象評論の弁護の根拠となり、時としては技巧の秘密を握っているところの専門家以外には美術について容嘴するの権利なしという考えを成り立たしめる。もし芸術作品が何らかの意味において吾々の生活に役立つものであると考えられるならば、好悪に基けて自己を最高の審査官であると考えるはずはなくなる。もしまた芸術作品が特殊の技能にその存在を負うのでなく、その価値が決して特殊の技能に依って定めらるべきではないと考えられるならば、吾々素人は必ずしも門外漢として自ら卑しむには当たらないはずである。芸術作品が一般に考えられているように各個人の利害に、生活に関係を持っておらぬならば趣味に関して吾々は何ら論議すべき必要がない。したがって自己の好悪を最終の標準として選択し取捨するのが正当である。芸術作品はそが観照者に与える印象を外にして何ら存在の理由がないという議論はしばしば主観主義の美学者の手で構成されるその奇形を除けば、確かに真理であると言うべきであろう。吾々が見ることもなる味わうこともできぬ作品に関してはいかに多くの人々がこれを称賛したとて吾々が事故に正直なる限り何らの関係もないはずである。びは客観的属性ではなく主観的評価であるという半ば正当なる考えや、自己に忠実であれという道理至極な道徳的精神は、かのごとくにして芸術観照は享楽であるという考えと結びついて、各個人の好悪が芸術的価値の標準であるという普通人の信念を固くせしめる。美は無関心的であるという学説の俗化や、芸術の目的は美の実現にあるという思想の浅薄なる理解がこれに伴うに至ればいよいよ芸術批評上の虚無主義が勢力を得るようになる。而して芸術作品が一般公衆に展覧せらるる機会の与えられたることは、その結果以外の弊を生じ芸術作品の本質に関する考察は顧みられないで、ただその皮相なる解釈と非芸術的なる批評とが世論を指導するようになる。それ故に美術批評が本当の意味で批評たり得るためには、芸術作品が一方においては純主観的な評価の上に立つ趣味の判断に規定せられているに拘らず、何らかの意味において普遍的認識に関係のあるものなることを看取し力説しなければならぬ。而してこれがためには芸術が理論的認識とは全く性質を異にする、しかもなお認識と正当に呼ばるべき活動に根ざしていることを洞察することを必要とする。芸術作品が一般に考えられているように、ある特殊な技巧と才能とに基づくということはこれに依りて深い意味を有するに至るであろう。かくの如くにして深い意味を帯びるに至らなければ単なる技巧や才能は技巧や才能としては何らの価値もない。而してそういう特殊な技巧と才能とに基づくとせらるるならば、趣味に関してはただ少数の専門家に盲従するより外はないことになり終わるであろう。

 吾々は素人としての美術批評の態度に現れている矛盾的な二面の心持ちを検査することに依りて、美の批評が一方においては各個人の勝手なる評価に止まり得ないこと、その評価に主観的ならざる普遍的なる要素が要求せられつつあることを見、而してその普遍的なる要素がある意味においては技巧に結びついていることを認めなければならない。技巧が芸術作品の存在の理由だという考えは、芸術作品がその特色を感覚的形式の上に持っているという思想に依りて、何が現されているかよりも、いかに現されているかが大切であるという思想に依りてなお一層強められる。しかし技巧に全てを帰する考えに対しては、吾々観照者が趣味の最終の審査官であるという一面の自覚が厳然として工事を申し立てている。芸術作品は感覚的形式を離れては存在しない、美は形式にあるという考えの不道理なことは多言を要しないで明らかである。それ故に一方においては各個人の印象の上に立っておりながらこれを超絶しているもの、他方においては技巧の上に立っておりながらしかもこれを超絶しているもの、そういう要素を捕えなければ美術批評は美術批評として成立し得ないことを知るのである。特殊な感興と特殊な技巧とを超美した言わば『純人間的』なある要素を見出してこそ初めて全ての芸術評価の標準が可能なのである。而してこれがためには吾々が仮に芸術的認識、もしくは芸術的人生観と名づけるものを捕えなければならぬ。この種の認識の存在は吾々はこれを否定することができない。しかしそれがいかなるものであるかに至っては吾々は今日未だ多くを語り得ない。それ程吾々にとってこの認識は一種特異な性質を持っているように思われる。それが他の認識といかに異なっているかを消極的に指摘することは吾々にもできる。またこれを試みた人は少なくない。しかしそれがいかなる性質のものであるか、いかなるそれ自身の論理を有し、それ自身の法則を有しているのであるか、積極的には吾々は未だこれを規定することができない状態に置かれている。吾々の美術批評はその最も幸運な場合においてもなおこの芸術的認識の断片的捕捉の上に立っているに過ぎないのである。そこに多くの美術批評が一方においては議論としてやや傾聴するに足るように見えても、吾々には皮相と思われいよいよ理を尽くしていよいよ真に遠ざかっているとの感を抱かしめる所以が潜んでいるのであり、一方においては美術批評が芸術的理解にとってほとんど全く何らの関係もないという事実を現出しているのであろう。

 吾々の結論はこの場合において極めて不生産的である、全く消極的である。しかしながらこの不生産的な消極的な洞察もそれ自ら決して無意義ではあるまいと信ずる。少なくとも芸術批評の態度の根本的変改を要求する点において、少なくとも芸術批評の態度の自省を促す点において、重要なる第一歩であると信ずる。


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本文ここまで

2021年10月18日月曜日

なぁ・・・・(絶対LIVEネタバレありだらだら語り)

ハヤフレ大好きになってしまってツイッタ流れてくるたびRTしてしまう
まじでオタクたち唇の凍傷、この果てしない銀河の中恋をした...となってる
完全に同調
でもさ、お前死んだ人が好きなだけじゃんって思っちゃうんだよね
放送中はカナメサいいじゃん〜〜って確かに言ってたけどさ、
二人の関係で絶叫したのってやっぱ死ぬ直前〜なんだよな
ま〜〜〜じで死人しか愛せないのかな
NLのカプで好きなの全員死んどる
死んでないカプで好きなの全員百合説ない?
お前さ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜最原終一とあんだけ殴り合ったのに変わってないじゃん
動かしようのない本質ってやつか〜〜〜〜〜〜〜〜???

2021年10月9日土曜日

買い食いメモ(ドリンク編2)

 記事が長くなってきたので分けた

2021/10/09
キリンレモン
昔と変わらない、酸味の効いた甘い味だ
CCレモンほど酸っぱくない、三ツ矢の次に好きかも(今やコーラが飲めないので)
キリンレモンを飲んだ最後の思い出、おじいちゃんの葬式なんだよな(従兄弟がこれうまいよって教えてくれた)

2021/10/10
コラーゲン2200グレープフルーツ アロエ入り
捨てちゃったので詳しい名前忘れた
アロエは細く、噛まなくていい 食感ではなく飲み物としてのアクセント
身構えていたほど酸っぱすぎず、美味しい
ただしこのカップタイプはゴミが嵩張るなあと思う SDGsくんポイント

2021/10/11
ミツカンフルーティス シャルドネ
りんご酢と葡萄のドリンク 美味しい
でも酢なので、喉の奥で味わうとむせそうになる
意外とクエン酸も加えている 酢酸だけじゃないんだね

2021/10/11
マルコメ 米糀からつくった糀甘酒
ちょっと期待してたよりも酸味がある、さらっとした甘酒
とても発酵が進んでいる感じ これはもう買わないかな・・・
赤い缶の甘酒が飲みたくなってきた

2021/10/11
リッチミンD 東和製薬
タウリン1000ml、リポDの安価な代替 カフェインは同じ50ml
酸っぱい、美味しさはだいぶ劣る。
こういうのは不自然に甘いものが求められているのに・・・
単品でも80円くらい、まとめて70円くらい
味も値段もトップバリュに及ばんとか雑魚かな?
チアミン硝化物(B1 10mg
リボフラビン(B2 5mg
ピリドキシン塩酸塩(B6 10mg
ニコチン酸アミド 30mg←これが価値ある
無水カフェイン 50ml
イノシトール 100ml
タウリン 1000mg←110円ほどで3000mlに強化された商品を売ってる そっちのが儲かってるからこれは「3倍で値段1.5倍とかコスパ良くね?」と思わせるためのものかも
まあニコチン酸アミドが大事だと僕は思いますが
添加物(バニリン等)についてもまた詳しく調べたい
こいつ栄養ドリンクになるとめちゃくちゃ詳しく語り出して笑うが


2021/10/13
愛のスコール 濃いめ
元のスコールがめちゃくちゃにうまいため、当然これもうまい
元のスコールより酸味やや抑え目、甘さが多層的か(蜂蜜が入っているが、言われれば…?程度)
レオパレス時代に深夜のフレスコでスコールよく買ってたことを思い出しますね?
後でウエルシアで50円やすく売られているのを見て、ファミマで買ったのを後悔した...
スコール通常版も含めて買うならウエルシア

2021/10/13
カゴメ野菜生活ソイプラス 豆乳バナナミックス
スムージーが激うまなのでこれは悪くないんだけどぜんぜんもの足りない
高いだけあって味は調製豆乳よりも激烈にうまい 調製豆乳がケミカルすぎるため
ぐい飲みしにくいザラザラ感あって繊維を感じる

2021/10/15
フルーティス ざくろラズベリー
一口目にむせると分かっていてもまた飲んでしまった

2021/10/15
ピクニック カフェオレ
一応飲んでみたけどめちゃくちゃいいというわけではない まとまりが薄い(味の分離感がある)苦味も甘さもカフェオーレよりやや控えめ 70円で量が減ってるし、あんまりお得感はないな...パッケージの子供むけ感そのまま

2021/10/16
午後の紅茶 ミルクティー
ディズニー美女と野獣のパッケージ thank you my darling!
変わらない味...という感じ 紅茶もミルクも濃いというわけではないが自然な甘さを支える程度のしっかりしたものを持ってる? 紅茶をいっぱい飲まないと比べてコメントできないな?
脱脂粉乳は入っているものの、ピクニックのようなミルクのバラけ感がないのは脂質の違いなのか乳化剤がうまいこと効いてるのか?

2021/10/12
キリン イミューズプラズマ乳酸菌 レモン味
ヨーグルト味が美味しかったのでこっちも買ってみたが、残念すぎる
レモン味のドリンクに不純物を入れたかんじ 味も薄い 乳酸菌を求めてるなら素直に美味しいヨーグルト味を買ったほうがいいし、レモン味を求めてるなら別のものにしたほうがいい

2021/10/14
三ツ矢シトラスイエロー 限定復刻
思ったよりオレンジ(ピール?)の香りがして、果物感があった
 かすかに感じられる苦味、オランジーナと似てる
ビタミンドリンクっぽいケミカルさもかすかにして、二層的な味だった 甘さはそこそこ
疲れて破滅したい時に飲むにはちょっと中途半端かな? でも美味しい
ライムの香りと書いてあるが、感じ分けられなかった

2021/10/15
ファンタ 白桃
こいつ同じ日に何本も飲み過ぎじゃないか? 1本にしてください!
とても美味しい ファンタと言われて想像するよりは、豊かな香りがする。酸味がすくないのでオレンジやグレープとちょっと系統が違うファンタかも。
410mlと少ないのはネックだが、体感とてもいい 飲み過ぎマンだし少なくてもええやろ

2021/10/16
まだ飲んでないけど成分レビューだけ
エスカップ 柳さんにもらった
チアミン硝化物(B1 5mg
リボフラビン(B2 5mg
ピリドキシン塩酸塩(B6 5mg

ニコチン酸アミド 20mg
カルニチン塩化物 100mg
無水カフェイン 50ml
タウリン 1000mg
カルニチンが含まれている以外はリッチミンより軒並み量が少ない。イノシトールが入っていない。どんな成分かよく知らんけど カルニチン(しじみとかでよく見るアミノ酸)に価値を見出すならエスカップだが、基本のドリンクとしては弱め
ちなみにB群だけみたらやっぱチョコらBBって最強の量だね
飲んだ 味がうめえ!ふわっと香る甘い匂いがする こいつと比べたらリッチミンはカスだわ
テンション上げるために飲むんだからエスカップのほうがコスパいいな

2021/10/17
CCレモン
果汁が入ってる、ちゃんと酸っぱい、黄色い、それがキリンレモンとの違い
あとビタミンが入っている(ケミカル感はない、クエン酸?の味が強いので)
酸っぱいな〜〜と思いながら買っちゃう

2021/10/16
ボディメンテ 大塚製薬
ポカリ系らしいミネラルとアミノ酸の味がする 乳酸菌ドリンクなので系統はiMUSEに近いが、味は薄め ラカンカが入ってるらしいけど、自然な甘味と主張するにはミネラル味が強すぎるな

2021/10/18
午後の紅茶 ストレート
しっかりテアニン?苦味がきいていて、甘さはあるけどスッキリよりの紅茶
美味しいけどタスクに脅迫されながら午前4時に飲んだので幸せではなかったです 生きるのが下手!

2021/10/20
トップバリュドリンク3000
意外とニュートラルな味 かすかな甘味はあるが渋みもある、酸っぱくない

2021年10月8日金曜日

劇場版マクロスΔ 絶対LIVE!!!!!! チラ裏

 例のごとくネタバレも含め、見たものと思ったことを混ぜて書く

事前知識
予告編を見ていない
悪のワルキューレが出てくることはブロマイドやキービジュアルで知ってる
マックスが出てくる
マクロスΔのことはなんでも知っている

冒頭覚えてなさすぎる、、、Fの衝撃が抜けきってないため
宇宙空間をパンクロック鳴らしながら進む改造マクロス?
今までダンスミュージックをテーマにしたマクロスってなかったよなそういや
ワルキューレたちはウィンダミアに招かれてライブをする
フィギュアスケートモチーフ・・・これってプリティリズムやん
びっくりしすぎて最初のジャンプの踏切見てなかった!
フリップ飛んでて、全部アクセルじゃないんだ!となった演出まじですごい
くもくもの体舐めるように写すシーン心臓バクバクなる
どんな歌詞だったか思い出せん、全部飛んだ
ブロマイドで使われてる絵だ!!!!!となる
フレイアちゃん胸盛られてそう
赤騎士となったボーグと曲芸飛行で張り合うハヤテ
ライブ見ながらセックスしてる(ルン絡めてる)カップルおってお前〜〜〜〜〜となる

故郷の村に帰り、村長にあたたかく迎えられるフレイア
みえはって炭酸ぐい飲みくもくも
神ファンサマキマキ ウィンダミア人って巨乳のイメージないから男どもは飢えてるのかもしれない
宇宙カバにまたがる手ブラのカナメさん。。。ランカの番組にVTRで出てたらしい
ゲームで手加減せず、飴を巻き上げるレイレイ
ハヤテが彼氏だと普通にバレて照れるフレイア

保守の男に宴会を荒らされるが、ヨハン様が場を鎮める
 結晶化が進んでいる神官
私たちはあなた方含めた皆に悲しい思いをして欲しくない
おばあちゃんのりんごの木を紹介するフレイア
飛んでいる時親父を感じるというハヤテ
そんなことしたら襲撃を受ける
闇雲の歌・・・バリバリに歪んでてかっこいい・・・
シャロンアップルの影響を受けまくっている、良い・・・
今回のボスは「レディM」に反発する勢力、人類に対してサイバネティクス、クローンを解禁せよという主張 元統合軍で行方不明になっていた
 思想的にはマクロスギャラクシーが行きすぎている感じか
横にいるメガネの男はECLIPSEという組織からきている
 ロイドにも資金提供しているらしい
りんごが焼かれる、、、あっちがとうちゃんの。。。って話したばっかりだろうが!
襲われた時美雲ひとりで遺跡ふらふらしててちょっと笑う いいのかよ

セイレーンシステム
星の歌い手の細胞のクローンに歌姫の歌を機械学習させる
強力なフォールド波を持ち、バジュラのように次元断層を乗り越えられる
人格を持つ。ウィンダミアでワルキューレの歌を聞いてから5つに分離した人格を持つように


シグルバレンスと空中騎士団が出撃 新曲!
テオ(ザオだっけ?)がやられるの早すぎ
敵は可変ゴーストを操っている!
 奇妙なリズムで揺れながら飛ぶゴーストの動きがちゃんとしてて感動
ネオンのような機体表面の処理が怪しく美しい!
 ロボっぽい顔が不気味!
アゲアゲの曲に合わせて体動いてた
反撃のワルキューレの歌、僕らの戦場だったっけ?
全体的にどこで何の歌が流れたか覚えてない・・・感情がジェットコースターなので
一日限りのライブではないので公式発表のセトリなんてないんだな
敵のデフォールドがみえた時誰かが「フォールドゲート!?」といったのでデフォールド反応じゃないんかい!となった
 もしかしてフォールドゲートは入っているか出ているかわからない時の呼び方?

シグルバレンスと敵マクロス、キャノンを撃ち合う
エネルギー不足から「風の歌」を使わざるを得なくなり、結晶化が進む
ハインツ様死なないで・・・

劣勢で撤退、マックスの部隊が助けにきてくれる
ウィンダミアは敵の手に落ちてしまう
めちゃ地面スレスレに飛ぶマクロス、ヒヤヒヤする
収容されるが、ヨハン様は教会をまもるために力を使いすぎて死んでしまった
最後にハヤテの父について語るヨハン
喪服を着るフレイヤ
ボーグは「お前はあの男(ハヤテ)とは生きる世界が違う」と諭す

マックスはケイオスに請われて艦長をやっているが、自分は根っからのパイロットだと話す
おじいさま!孫娘ミラージュだけどあんまりよしよし〜〜って感じじゃない
 そんじょそこらのお爺ちゃまじゃないということだ
フォルモ!あのショッピングモールの名前にもなっているフォルモだ!
早瀬さん?なんか作画が違う気がするのでいまいち信じきれない

マクロスF最大の謎であった「レディM」の正体がさらっと明かされてしまう
Mとはメガロードワンのこと!!???それってマクロスIIの移民船のことだよな?
分岐した遠い未来から指示を送れるってどういうことなんだ
そんな技術があるとしたらフロンティアの顧問(名前忘れた)がミンメイと会える気がしてしまうのもわかる気がする

旧ゼントラン工廠に潜伏することに
演習に励む。
ゴースト相手に、そしてマックス相手に
ボーグとソリが合わないハヤテ。
エースには向かないと評されるミラージュ。
未来はオンナのためにある←いやミラージュが覚醒するシーンで流してくれや


人間に擬態した機械兵(あるいは完全に改造された元人間)に襲撃される
アラドは怪我をする
情報を送信され、居場所がバレてしまう
敵本隊に襲撃される。
ハヤテのピンチにフレイアが力を振り絞って風は予告なく吹くを歌い、激しく結晶化してしまう

敵のフォールドに便乗してウィンダミアに戻り奪還する作戦
フォールドゲートはプロトカルチャー遺跡がある場所に現れると予測される
メッサーが散った星にまた行くことに
カナメは作戦からフレイアを外す
一緒に歌いたい、と美雲は泣く 救命ベッド越しに手を合わせる二人
出撃直前、フレイアはベッドを抜け出していた
 通路で宇宙を背に抱き合う二人、そしてシャッターが閉じる

最終戦、
戦場に出てくるマックス、
指揮の才能を見せるミラージュ
ルンの花を咲かせるフレイア
ウィンダミア人たちの合唱
ルンを生やし通じ合ったヤミキューレ
メガロードワンを逸れるマクロスキャノン
命を燃やし尽くしたフレイア
新しい命と、りんご畑で空を仰ぐハヤテ。

え、つらい・・・
どうして・・・・


一晩明けて書いてる
りんごの種は1つだった
それがいっぱいの木々になるには何十年もかかりそうだから、ラストシーンはフレイアのおばあちゃんのリンゴではないな
星の歌い手の子どもがどのくらいの早さで成長するのか(成長するのかすら)わからない、視聴者に委ねられた部分が多すぎるんよ

曲のつなぎ目というかシーンの空気と曲のリンクが甘かったなって
サヨナラノツバサやレヴュースターライトで熱狂してしまった僕には、そういう部分でリピートしたいと思うほどハマらなかった
マクロス同士キャノンは撃ったけど、ダイダロスアタックの撃ち合いはなかったし・・・
(その点は激ワルが神だった)

カナメさんがメッサーくんをめちゃくちゃ引きずってて嬉しいやら悲しいやら
お前・・・一生それで生きていくのか・・・・?

よかったところ:デストロイヤーが出てくる

劇場短編マクロスF 時の迷宮 チラ裏

ネタバレが含まれている


 朝一発目の上映で観て仕事して、帰ってから書いてます
あにーちゃんオタクトーク付き合ってくれてありがとう...

起こったことと思ったことを混ぜて書きます、純粋経験を大事にするので...
嘘、チラ裏だからです

事前知識
マクロスFのことならなんでも知ってる(不遜


ホシキラをライブで歌うランカちゃんのシーンから
白いベールの衣装、墜落したジュランダルの演出
観客のルカ、オズマ、クランとミシェル←この二人見た瞬間ニチャニチャオタクスマイルしてもうた
ナナセは裏方だった ランカのマネージャーかな?
キャシーがいないな、と思った 仕事してる?
キャシーの名前思い出すのに3秒くらいかかった
フォールド波を検知するルカの機器
お腹を押さえてうずくまるランカちゃん
何度も起こってるはずなのに耐えられないの、めちゃくちゃ痛いんだろうな...
いやでもそろそろ慣れてくれないかな、プロなんだし
と思ったけど、サヨナラノツバサから数年後なんだから数年ぶりの激痛の可能性があるな

プロトカルチャーの遺跡、万能の物語装置だ
成長したランカちゃん美人すぎて可愛すぎる 心臓がやばい シェリル派やめそうになる
お供物か?と思ってたらミシェルが言ってくれた
もっとクランとイチャイチャしてくれ
マグロまんがちゃんと二個あっておっぱいになってて笑うが
アルトくんが一人で二個食ってるイメージはないな

遺跡に入る
アルトくんが裸だ
シェリルの前に現れたアルトは女形だったので、第一印象が具現化されている
映像のシャワー美しすぎて覚えてない
ベッドでバタバタするランカ
砂浜で二人で指飛行機を飛ばして走り回る
サンフランシスコのケーブルカーで一般客を押し留めてるアルトくんと体張ってないブレラで草
アルトくんのコールサイン?を繰り返していて印象的だった
シェリルが出てきて「いややっぱシェリル可愛いな。。。」となった お前たちがおれの翼だ

ランカちゃん、やっぱ小さいアバターになるんだな・・・
リラメルララメルランルララン

遺跡が指向性フォールド通信波を発した時、おれも「あ、これアルトくんのいる場所だ」と思った
この映画作ったひとの思ってること、分かるかもしれん。。。


後で思ったこと
デュランダルに捧げるのホシキラが受け入れられるってことは、未亡人アイドルで売れてるのかな?
アイドルというよりはシンガーだな
めっちゃ大人の色気あってほしい
髪の毛が黄緑混じってるの、ちょっとだけお兄ちゃんに似てるんじゃないか?

終わりに
マクロスフロンティア、大好きだ・・・