底本:『制作』一巻三号・二年二月号(1919年2月)
筆耕者(=当ブログ管理者)メモ
原文のままとしてあるもの
而(しこう)して
「新プラトー主義のプロチノス」は現代風に書くと「新プラトン主義のプロティノス」(検索用)
「ミケランヂエロ」は「ミケランジェロ」
現代の用法に直したもの
井゛=ヴィ
始めて→初めて:現在の用法で適切な場合に限り
先つて→先立って のように漢字を補った
原文傍丸点部は太字に直している(エディタの都合)
本文ここから
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芸術批評 深田康算
バルザックのある小説の中にでもあったかと思う、私は「批評家とはなり損ねた作家である」と言うような詞の記されてあったのを記憶する。芸術批評家の地位は、昔からして芸術家自身からは勿論のこと、一般公衆から、また彼れの同業者である他の文学者達からさえ好くは思われず、美学者美術史家などからさえ軽んぜられるのが常であった。芸術家自身と公衆とは、それぞれ別の理由からではあるが、批評家の仕事を目して余計なる指し出口ではないかと考え易い。私自身の好悪を定めるのに何にも他人の舌を借用する必要がないと、公衆は腹の中で思っている。私の作品を批評することはできても、真似することさえもできはしまいと芸術家は高をくくっているに相違ない。美学者や美術史家が芸術批評家の言論に対して軽蔑の眼を以て見ているのは、言うまでもなく、彼らが永遠の立場からして、彼らの目から見てたかだか一時的権威を有し得るに過ぎないところのものに対するからである。それは過ぎ去った時代に一時勢力を有した評論の価値が今では全く無に等しくなっているという事実を、沢山に見ているいわゆる智者の止むを得ざる立場からなのである事実「価値の顛倒」は、その例証を美術史及び文学史における程それ程著しく他に見出すことができないとも言えよう。
これらの二重もしくは三重の、しかもそれぞれある度まで正当なる、軽侮の間に立って、芸術批評家は果たして自己の存在の権利を確立することができるであろうか。芸術批評は文学の中最も新しき一つの種類(ルビ:ジャンル)として果たして特殊の分野を占有し得るのであろうか。
芸術批評が、美学上の研究や、美術史的詮索から独立したものとして、而して一方においてはいわゆる公衆の単なる好悪の声高き代弁者としてではなく、他方においては芸術家自身のいわゆる黒人(ルビ:くろうと)評の受け売り──批評家自身が創作家である場合を除くならば厳密に言う技巧上の得失に関する評論は畢竟受け売り以上に出ることはできない──としてではなく、確実なるそれ自らの地位を文化の中において占め得るためには、私の見るところでは、まず極めて重要なる──したがって極めて困難なる幾多の問題が解決せられなければならない。而してこれらの問題がいかなる種類のものであるかを十分に吾々に語っているところのものは、芸術批評の歴史である。もしくは芸術批評がいかにして(その厳密なる意味において)古代ギリシアには見出されず、中世期にも見られず、文芸復興期においてようやくわずかにその曙光が認められ、而して近世期に至って初めて燦然として現出するに至ったかの歴史である。もしいわゆる公衆の単なる好悪がすなわち芸術批評であるとするならば、批評はすでに制作と共に生まれたと言える、見方に依りては制作に先立ってすでに存在したとも言える。また黒人評が唯一の真実なる批評であり、語る者は作る者でなければならぬとするならば、そこでは人々が一般に極めて多弁であった(したがって芸術家もまた実シグルバレンスに能く弁じた)ところのギリシアは、また同時に最も発達せる芸術批評の国でなければならなかったであろう。なるほどオスカー・ワイルドは、その「批評家」の第二対話において、ギリシアにもまた今日のごとく展覧会もあった、芸術批評家もおったと面白くも想像している。しかし事実は「芸術批評」をその厳密なる意味に解する者にとってギリシアに美学者と美術史家との存在を認めしめるけれども、全く一人の芸術批評家をも一篇の芸術批評をも発見せしめない。芸術批評の概念を弛めて、これを広く芸術に関する論議と解するならば、公衆の下した是非、芸術家の吐いた警句、思想家学者の述べた芸術論にして、ギリシアから吾々に伝え残されたるものは中々に多い、多いばかりでなくして長く吾々の心に銘するに足るものが少なくない。しかしながら、これらのものは、畢竟ギリシア民族が芸術について、ある意味において、深い興味を有していたことの証拠であり、また彼らほど芸術的でもあった民族はなかったことの証拠であるとは言えるにしても、芸術批評の意義が彼らの間に理解されていたことの証拠とはならない。厳密なる意味において言う「芸術批評」とは、私の見るところに従えば、いわゆる黒人がではなく、素人が、過去のではなくその現代の芸術作品に関して述べたところの言説である、そうしてそれは芸術家の芸術家としての人格の立場から見られたものでなけらばならない。この三つの特徴を標準として、ギリシアのいわゆる「芸術に関する文学」を渉猟して見るならば、これに該当するところのものの一篇をだに見出し難いことを吾々は発見するであろう。そうして、それがまた誠に当然でなければならぬことに吾々は気がつかなければならない。なぜならばギリシアにおいては芸術家が芸術家としてはついに尊敬せられなかったから。
芸術が人生においていかなる地位を占めいかなる意義を有するであろうかの考察は、芸術そのものについての真の理解なしにも着手せられ得るであろう。過去の芸術に関する研究は、吾々のものとしての芸術を要求する熱望なしにも取り扱われ得る。芸術批評が、真面目なる態度を以て当代の芸術作家を取扱い、その意義と地位とを解釈し得る絶えには、吾々はまず芸術家を芸術家として尊敬することを知り、尊敬することの正当なる所以を知らなければならぬ。而してこの認識に到達するためには、第一には芸術家の活動が外的手工的労作でないことの確認、換言すれば芸術家を職工であると見做す古い偏見からの脱却が必要である。芸術批評史の上でこの認識が初めて獲得せられた著しい例は、古代ギリシアの末期に属する新プラトー主義のプロチノスにおいてであったと考えられる。そうして中世期において一度ほとんど全く見失われたこの認識は文芸復興期に至って再び獲得せられ、そこで初めて永遠に確立せられるに至った。レオン・バチスタ・アルベルチやレオナルド・ダ・ヴィンチの書論、ミケランヂエロの人格、これらはこの認識を確立した強い因子とも見るべきものであり、またこの認識なしには全く不可能なる現象と言うべきであろう。レオナルドの書論などに現れている学術と芸術との間及び各芸術間の位争いの論議のごときは、もとよりそれとしては必ずしも特に吾々の興味を引くに足らない問題であるが、芸術(特に絵画)を五箇のいずれの精神的仕事に比しても位高きものと見做すその見方の故に深い意義を有して有る。このごとき見方の確立によって初めて吾々は、芸術と芸術家との意義についての正当なる洞察を得、単に過去のものとしての芸術に関する詮索や、人生における単なる方便としての芸術に関する考察から離れて、実に吾々の、精神的事業の一つの特殊なる力として芸術を考えることが可能となったのである。而してこの地盤の上に「芸術批評」は初めて生まれたのであった。
芸術批評の存在、したがって芸術批評家なる一階級の存在は、そうであるからして、むしろ芸術がそこれに至って初めて真に芸術として取り扱われるに至ったことを示すところの唯一の証左であるとさえ言うべきものである。芸術批評が、新しき──もしくは最も新しき──一つの文学の種類として現出するに至ったことの近世期に属する所以は偶然では決してない。
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