底本 小川徹 編『現代日本映画論体系1 戦後映画の出発』pp.26-29
底本の底本『中井正一全集』第三巻「現代芸術の空間」
底本の底本の底本『映画芸術』1946年9月
筆耕者メモ
摑得(掴得)かくとく、獲得に直した
又 また ひらいた
尚 なお ひらいた
射影手続の群関係って何?
否定の媒介を貫いてってどういうこと?
物資の光学的科学機構 物質の、だと思う 直した
感ぜるを得ない。感ず+否定「ず」連体ではないか 感ぜざる(感じざる)、だと思う 直した
あり限り この筆耕者組版業者何してんだマジ ある限りじゃないのか? しかし限定節に未だって美文じゃないし修正しても完璧にならんのでそのままにしておく
語彙力のNASA──
嘘言(おそごと)うそ。いつわり。そらごと。
その涯(はて)を辿るならば
横る よこほるなのか よこたわるなのか わからない
ゆるがせ 忽せ 物事をいいかげんにしておくさま。なおざり。おろそか。
殷々 いんいん 大きな音がするさま。 殷々たる煌鐘の音 煌黒龍アルバトリオン
本文ここから
1
映画が物質的視覚から構成されていると言うことは、案外人々が見のがしているところの条件である。
レンズの光学的作用と、フィルムの化学的印象が、映画の立っている基盤であり、それ等のものが、人間が見ている世界と同一のものであると思っているのは、ほんとに、人間の短期間の習性にすぎないことは、むしろ驚くべきことである。
しかも、もっとも驚くべきことは、この物質的視覚が、その率直さにおいて、更に、その正直さにおいて、人類全体の信用を獲得したことである。
人類は、今、百号のカンヴァスに描かれたる悲壮な戦場の光景よりも、ライカの一コマによってスナップされた一状景の方が、何か清新であり、凄壮なる事実感に打たれるのである。
なぜならば、人々は、レンズとフィルムが、現象に対している関係は、厳密に対応的に、函数的な関係をもって、一点も一線もゆるがせにせず構成されていることを知っているからである。
宇宙的関係の中に、一回しか起こらない時間の瞬間が、現象とフィルム面の上に、対応関係を構成していることを知っているからである。
換言すれば、フィルムが写されるときの画面は、射影手続の群関係であるが、未だ物質的自然現象なのである。
2
人間はこれまで、あまりにも、嘘言を言われすぎている。教師が、裁判官が、またついに国家自体すらが、嘘言の根源となっていることを知っているとき、人々は「歴史そのもの」が「真実そのもの」が孤独であることを感ずる瞬間すら経験したのである。
嘘言にうずまった人間が、レンズと、フィルムのもつ現象との物質的射影関係にとりすがった心持は判るのである。しかも、歴史的現実の正確さを求めるにあたっては、更にそのとりすがる心持が判るのである。
私は学生時代、十字街に弾丸に打ち散らばらされている群衆を俯瞰した、十月革命の一スナップに刺貫れるような感動を覚えた経験をもっている。あれが何十号かの絵画の大作で描かれていても、その感動は、その性質を異にしていたであろう。
物質が、無表情に自分の前に、一自然現象と同じように、革命の高潮した瞬間を、そこに投げ出しているところの事実感に私は打たれたのである。
歴史的事実は、常に、「聖なる一回性」としての厳粛性を帯びているのである。なぜならば、いかなる泡沫のような現象でも、常に歴史的な本質の表現であるからである。歴史の厳粛性は決して、神に帰する必要はない。それよりも、何人の胸の中にもひそむところの、「この世の中が果してよくなってい行くのであろうか。やっぱり駄目なんだろうか。」この断崖に立つときの苦しい人間の嘆息の故に、歴史は厳粛性をもっているのである。神々も、この嘆息を吐くときにのみ美しいのである。
3
物質が、自然現象として、歴史的瞬間を把えたとき、それが、人間を深く打つゆえんは、掘下げて見るならば、人間が物質より堕落しているかもしれないという、ソフィストケートされた新しい哲学の懐疑を用意している。
アナトール・フランスをして「物になりきりたい」といわしめる言葉の背後にも、率直と、正直が、人間を離れてゆくノスタルジヤを表現したかと思われる。
フィルムが撮った一画面の中の、群衆の斃れている一人を私達が見ているとき、私の見ている一黒点は、その涯を辿るならば現像、撮影、即物質的手続を貫いて、実はヂカにその横っている一人の人間の肉体に、私の眼は連続しているのである。
それは、歴史的なる聖なる一回性に、私は時間を隔てて、再び連続していることを示すのである。物質の正直さ故に私達は物質的手続によって歴史感を撃発されるのである。
映画の連続せるコマは、この連続せる時間の再現である。「時間の再現」その事が、時間概念とは自己矛盾しているのである。なぜならば再現できない流動しているものが時間なのであるからである。しかも再現されなければ歴史的時間の意識は生じないのである。
映画の偉力は、物質的手続を貫いて、この「時間の再現」に向って、各々の個人の時間をダブらせ得ることである。そして歴史的主体性を人間的時間の中にバラ撒くのである。人間の技術の発展史上では。この時間の再現可能、また逆転可能の問題は、人が意識しているものよりも画期的というべきであろう。
4
映画が時間の流れの中に「時間再現」の機能をもっていること、即歴史の中に歴史をダブらせることで、その落差の中に歴史感情、願い、否定の媒介を貫いての主体性を撃発することを捉えて、その働きを全面的に活用しているのはニュース映画である。歴史がシナリオであり、太陽がカメラであり、人類が俳優であるところの、この大いなる悲劇にもまして、劇的なるものはあるまい。
それが事実であるという信頼感を、レンズ及フィルムの物質的手続の描写がもっているとき、このフィルムの切断と連続によって、歴史を縦に貫いている人間の願い、即主体性を撃発せしめるとき、ニュースカメラマンが捉えたるところの一つ一つのカットは、実に、新しい世紀の芸術の素材となって来るのである。
物質が捉えたる時間と時間を自由に繋ぎ合せることで、人間の根底に横っている欠乏、願い、獣から成長した、人間の成長と、その成果により生まるる香気と尊厳を、撃発することは、実に新しい試みといわざるを得ない。
十年昔に私達が見た『トルクシィヴ』『欧州大戦は語る』等のものは、すでにニュースフラッシュを越えて、計画と歴史を太陽の下にドラマとして取扱った初めてのものである。
人間が集団大衆となることで、また物質の光学的科学機構の中に沈み込むことで、物質的影像である一コマ一コマを、民衆は歴史的意欲の撃発者として捉えたのである。いかなるレポルタージュも、このフィルムの持つ率直なる報告には嫉妬を感ぜざるを得ない。
ニュース映画は未だ利潤ニュースであり限り企画に多くの不自由をもっている。これは未だ未来の芸術的素材であろう。
5
フィルムがその回転数を撮影と映写において変じ得るということは、コマ落、高速度、逆回転、二重写し等の技術によって、多彩な時間的変化をもたらせている。文化映画における植物を写す場合のコマ落し、または弾丸の高速度撮影のごとき、人間が植物の時間の中に歩み入り、また弾丸の時間を追うことすら出来ることを示すのである。電子顕微鏡、望遠レンズの進歩と共に、映画眼(キノキイ)は実に広汎な視野を獲得するに至ったのである。
かく考えるとき、レンズとフィルム、即「映画眼」の、そのもつ最も大いなる偉力は、それが、一回しか繰返さない歴史的事実を、捉えて、それを再現できるというところにある。そして、その捉え方、再現の仕方に広汎な自由をもっていることである。
映画が演劇においてのみその資本力を投じられ、発展成長しつつあるのは、演劇の実写、即時間再現可能の機能を単に利用したに過ぎないのである。缶の中につめて送れる演劇として、その便利重宝さを利用されたからだる。演劇映画はそれ自身長足の進歩をして、芸術分野に確固たる地歩を占めたけれど、しかし、レンズとフィルムそのもののもつ偉力は、未だ外に大いなる未来をもっていることを注意すべきである。
演劇映画といても、カットで連続できることは、演劇よりもなお容易に、多数の時間の同一の今ともいうべき、同時場面に出入出来る可能性を提供する。裏町生活の集団的描写のもたらす芸術的雰囲気は、この同一時間の切断的断的の呈出である。
この切断の断面を連続するのは、観客である。大衆の歴史的意欲である。映画が、演劇及び文学のごとく、「である」「でない」の説明の繋辞(コプラ)をもっていないことは、この「である」「でない」の判断を、大衆の意欲、歴史的主体性に手渡すこととなるのである。多数の場所に流れている同一の今を、閃光のごとく貫くものは、万人の中にある歴史的な願望である。歴史的主体性である。
繋辞のないカット、それは進行を止めた歴史の瞬間である。前のめった歴史である。多くの前のめった歴史的瞬間を、一瞬に貫くものは、原子時代より、歴史の未来にまでも、一以て貫いている人間の歴史的嘆息である。「この人間生活が果して正しく導かれ得るのか、あるいはついに正しくは導かれないのか」この実践の苦悩の果に面する切断の空間、深淵が、暗黒が、映画のカットの周囲を取巻いている。
この深淵に向って、暗黒に向って、深く嘯き、殷々たる反響を測るが如きカットを、私達はいかに待ち望んでいることか。「今」「此処に」大衆と共に、歴史を嗣ぎつつあるという満ち足りたる感激の中に立ちつくすが如きカットに、私達はいかに永く飢えていることか。
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