底本 小川徹 編『現代日本映画論体系1 戦後映画の出発』pp.19-25
底本の底本 『中井正一全集』第三巻「現代芸術の空間」
底本の底本の底本 『映画芸術』創刊号1946年6月
筆耕者(当ブログ著者)による注
又或いは ひらいた
に取って ひらいた
劃然 新字にした 画然
彫、刻 汚れもしくは印字ミスと思われるため省いた
始めて 現代用法の初めてに直した
付点はボールド体で代用
構成されるである→構成されるのである 直した
二次限:二次元だけど原文まま
もたらせている もたらしていると現代では言うが原文まま
或は あるいは ひらいた
語彙力のない筆耕者のメモ
奔騰:(相場が)急に激しい勢いで上がること
寂寥 せきりょう
つらだましい:面魂。気魄のこもった顔つき
繋辞 けいじ 命題の主辞と賓辞とを連結して否定または肯定を表わす語
メンフィスは中王国時代は砂漠じゃない、気持ちはわかるけど
ブラウン運動のたとえは下手
自己、主観が主題になっている箇所があって面白い!!!
佐々木隆次「第五章 『気』と自我──『気』をつかう」『「気」の精神分析』せりか書房(2011)とあわせて読むとめちゃくちゃ良い
歴史的主体性ってヘーゲルのガイストの翻案だよな?
なんで接続作用って言うにとどまらず主体性とまで言うのか、理由を説明できたらいい研究になると思うんだけど
本文ここから
1
「認識は自己の生活の中に含まれていないよう連関を作り出すことが出来ぬ」と哲学者はいっている。
空間の認識でもそうである。自分が社会の中に生活としてあるあり方、社会への姿勢、生活への腰のすえ方、これが、空間の感じ方を導いて決定して行くのである。
生活のたて方が、何かオドオド畏れにみちているものにとっては、空間は一つの畏れとしての構造をもって人々に押し迫って来る。またあるいは、何を見ても、物は皆自分の欲望の自由な対象であると見えるものにとっては、空間は拡がり延びるところの延長の連続として感ぜられ始めるのである。
空間が畏しいものであると感じているものにとって、この空間は自分を中心として自由な延長であると、いくらいって聴かせても理解できないのである。何故なら、彼は生活の自由を知らず、世界への自分の関係が暢びのびした拡りであることを生きた意味として理解できないからである。
一芸術批評家は、エジプトの造形意識は「空間への畏れ」であると指摘している。あの広い砂漠の中にポックリと築かれているピラミッドを考えて見るとき、それは盛上がったと感ずるよりも、人間の営みを取巻く無限の時間と空間の空漠たる圧迫の中に、僅かに、これだけの限界をもって与えていることの徴しとして、空間を区切っているかのようである。この一批評家の言葉に、全世界は、「あ、そうか」と目を瞠ったのである。
ナイルの氾濫と炎熱の中で、砂漠に取巻かれた峡谷に生きるには、数百万の人々は唯一人の帝王の意志に従わねば生きられない巨大なる国家奴隷の集団として屈服せしめられたのである。四千年もの間、彼等はかかる生活をなして、かかる空間意識を決定したのである。深く巨大な諦観とでもいうべき畏れの空間の意識を決定したのである。
世界の隅々に、いろいろな形で存在した奴隷制の意識、それを彼等は空間の中に、一つの徴しとして、画然と地上に置いて去ったのである。われわれは、この造型を通して、彼等の生活への嘆息にヂカに触れることが出来るのである。
私達はこれを「虚なる空間への畏れ」とでも呼んで置きたい。
2
原始共産体崩壊より奴隷制に推移したギリシャ人は、異った形で空間を意識し始めている。奴隷制の類型がエジプトとは異っていたからである。リーグルはギリシャの彫刻において初めて内面的寂寥が出現すると述べている。獲て来た食物をみんなで分けあって喰っていたわけ前(モイラ)──後にはそれが運命という言葉の意味をもって来たのであるが──が最早協同のものではな口して、自分一人のものとなるとき、人々は生活の外側を包んでいる無限なる空虚に対して、共同に構成すべき構造体の意識を失ってしまうのである。そして、独りになりつつあることへの驚きがギリシャ彫刻の歴史の意味となって来る。エジプト及アッシリヤの外なる世界、虚なる空間に力づよく反発する彫刻と対比して考えるとき、その感を新にせしめられるのである。ギリシャの運命悲劇と称せられる悲劇の構造とも放つべからざる関連を見出すのである。
パルメニデスにおいては、外側に無際涯に拡る空虚な空間を認むるよりも、むしろその内側の空間に間隙があるか否かを問うているのである。アナクサゴラスは外なる空虚が実は空気で充たされているのであって、真の空虚は存在しない事を証明するのであるが、その空虚の存在が要請さるる動機となるものは、物と物を分ち区別する間隙の可能がここでも問題となるのであった。この孤立と間隙を与えるところの混沌が「場所」(トポス)と呼ばるる空間意識なのである。論理の世界でも、その議論の交わさる未整理の疎開跡のような荒れたる場所、それがトポスである。トピック話題なる言葉はそれからやはり来ているのである。ギリシャを征服したマケドニヤの王アレキサンダーの家庭教師であるアリストテレスでは、この孤々分離の混沌トポスはやがて、秩序の一鞭をもって上と下の位置順序を持つ「形態の幾何学」とでもいうべき、後の三位一体の如きイエラルキー身分空間を構成するのである。人類の大いなる禍であるところの封建制度はこの身分空間を自らの生活をもって、嘗め味い、アリストテレスの哲学は近世の初頭まで多くのアレキサンダー即封建領主達の城門を固める鉄鋲となったのである。
3
ガリレオ以後の科学の黎明近代空間の出現はこのアリストテレスの身分空間の崩壊より始まるのである。人々は「人は人に対して狼である」という奔放な喜悦をお互にぶっつけ合って、もはや上と下、獅子と羊のみずんは最早なくなったんだと、確かめ合うのである。かくして上と下の身分空間は壊え去るのである。それは大いなる哄笑である。租税にあえぐ土地から放たれた海の上で、暢びのびと何物をも疑うことが出来る自由を自分がもっていることに驚嘆し、自分の理性と判断が星をも軽侮するに足るだけの精緻さをもっていることに胸をふくらました自由通商の人々が達した一つの態度なのである。
それは王笏をもった帝王達を哄笑しはじめる商人達のつら魂が先ず掴んだ感覚である。自己を発見した多くのコロンブス達の描きはじめる地図である。
自己を発見した人間の空間とは何であるか。それは即「遠近法の空間」の出現である。
「今」「此処に」自分が立っていることを意識し、自分が物を考えているんだという事を意識しはじめたということは、容易ならざることであったのである。ここまでに達するためにいかに多くの科学者、思想家が火であぶられたり、牢獄に呻いたかわからないのである。愚劣な身分空間の底敷となって、その愚劣の重さに驚嘆したかわからないのである。
自分が立っているところからながめやるところの永遠の一点に向って、全世界が遠くなるほど小さくなり集中されているところの遠近ある視野の体系の世界があることを発見したのである。
これは世界をまとめることの出来る中心が各々の個人のその基底をもっていることを意識することなのである。これは人々にとって信じられぬ程の魂の変革を要したのである。
日本で司馬江漢が絵画に導入し、近世浮世絵で人々が試みるまで、日本人にとっては、かかる画法は一つのバテレンの奇妙さの一種でしかなかったのである、
この新たなる空間の出現は一美術批評家の言葉を借りれば「体系空間」の出現である。一人の人間の視点が確立して、その視点を軸として全世界の体系が構成されるのである。即人間が世界の観察者として、即「主観」を確立したのである。
絵画はこの世界への態度にとって、最もふさわしい表現態度として、それを完成したのである。絵画が真の自らの威力を発揮したのは、この観察者としての描写の空間の体系を構成する立場においてである。スペインの帝王の艦隊を打破ったオランダの商人達の海賊船隊の中から生え出でたレンブラントの絵画以後、絵画は人間と太陽の中に、その体系空間の確立を光の洪水をもって高らかに歌ったのである。
ここではデカルトが確立したように空間は延長なのである。人間の意志の拡りが権利であるように、自由の感覚も、また、この延長の空間的感覚の生活的理解だったのである。
最早ここでは空間は畏れではない。また身分の重圧の集合のイエラルキーの空間でもない。自由な、個性と欲望の豊かな氾濫、光と線による自分の視方の構成の体系の誇示なのである。
それは、しかし永遠の体系ではあり得なかった。ゴーガン、ゴッホで、その個性の豊さは最高の点にまで達し、漸くそのカタストローフその空間の破壊が支配しはじめたのである。つまり人間がその人格の存立を自らの生活の中に崩壊しはじめたのである。
近代資本主義はアダム・スミスの自由論の段階にはふみ止まってはいなかったのである。すでに資本主義の根底にある手形的取引の中には、最早、人格と人格の契約といったところの、主観と主観の二つの体系が組合って構成する秩序を砕き去るところの遙かに次元を異にした体系機構を用意しているのである。金融経済のもつ国際的体系は、最早人格と人格の相互の信用といった個人的構造を遙かに越えて、人間が一片の破片となって、その巨大なる機関の中でキリリキリリと分子のブラウン運動のように回転しはじめるのである。
巨大なるブロック資本の重工業の機械生産の中で、人間は新たなる貧窮の意味を知りはじめ、個性の喪失を味って慄然としはじめるのである。ムンクの寂寥からはじめて、表現派より、シュープレマティズム、シュールレアリズムに至るまで、彼等は最早確固とした自らの観点を失ったのである。利潤という機能は利潤追求の方向に向ってのみ走って、人間そのものを無方向たらしめる。方向の体系を失わしめる。即自分の個性の中に哄笑しつつ築きあげる体系空間を失って、深い戦慄の中に、いわば一つの「図式空間」を構成しつつあるのである。それはすでに方向をもつ体系ではない。単なる無方向なる図式である。絵画の危機と呼ばるるものはそれであり、また、それを描かずにいられないのは人間の生活の危機そのものの嗟嘆が、その根底に横たわっていることを見のがすことが出来ないのである。
4
絵画の危機の始まるときから、皮肉にも映画はその神を恐れざるものの表情をもって、芸術の世界に歩み入るのである。
レンズの見る見方を人間の見方であると何時とはなしに承けいれた人間の同意は、どんな国際委員会も叶わない専断的説得力をもっていた。
人間の目の焦点は、二ミリ平方位にしか合わないのである。その二ミリの焦点をもって、人間は世界を撫ぜ回して。世界を観察し、世界像を造るのである。写真の見方が人間の見方であるというのは一つの申合わせようなものである。レンズの角度は難度が最も妥当であるかは全くの疑問の中にあるのである。しかし、世の写真機製造業者はこのレンズという非人間的世界観察者を人間が見るものとして、人類の中に呈出しているのである。そして、人間は逆に、レンズの見方に従って世界をそう思込もうとしているのである。この見方は実に、人間が付託したところの物質の見方である。自己がその観点を意識するこれせいを奔騰させる自由人間の築上げる体系の空間ではない。
世界に単に対応関係をもっているところの徹底した「図式空間」なのである。人間集団の構成する物質の見方なのである。
この徹底した物質的視覚としての「図式空間」から映画は出発するのである。
しかし、問題は、この固定された「図式空間」であるフィルムの各々のコマが連続して、人間の残像の中に一つの時間を構成することから、更に展開して来るのである。
二次限的な「図式空間」が時間の中に連続することから、カメラは同一地点で連続して回転視することが、更にまた移動しながらの視覚が可能となる。そこで映写幕は二次限であるが、映画は彫刻の三次限性をも超えて更に四次限空間の芸術となって現れるのである。しかし、真の問題は、それがその物理的時間性をも乗越えて歴史的時間を確立するところにむしろあるのである。映画の非人間的「図式空間」が、かかる歴史的連続の一連続体となることで、人間性を巨大なる展開をもって回復するところに深い注意が払われなくてはならない。人間性を奔騰せしめる主観を確立した「体系空間」よりも、もっと高度に、人間の歴史的感覚を呼びさますものとして、「図式的空間」がその役割を果すことを忘れてはいけない。即「主体性」の出現がそれである。
5
フィルムを鋏で切り、アセトンで継ぐことが出来ることは、普通考えられているよりも重大な変革を芸術の世界にもたらせているのである。一つの場面と、一つの場面がカットで連続しているとき、各々の場面は各々の表象を人間に呈出している。しかし、その表象の連続にあたって、文法でいうところの、「である」「でない」の繋辞が欠けているのである。非人情の「図式空間」と「図式空間」は、繫辞なしの「切断」をもって連続しているのである。
製作者がその「切断」を何等かの意図をもって連続したつもりでいても、戯曲、小説におけるように繫辞による説明展開を観客に要請するわけにはいかないのである。
この「図式空間」と「図式空間」の「切断」を連続するのは観客大衆の自らの「感情」なのである。
ここで私は感情なる言葉の定義を厳密にするを要するのである。クルト・レヴィンは、空腹の「知覚」を感情たらしめるのは、生きているという根源的方向への力学的動きが、空腹の知覚を飢えの感情として力学性をもたらしめるのであるという。凡ての知覚が、方向をもった力の関係に置かれること、この知覚の歪みが「感情」であるということは私達には示唆深いものがある。
今映画で知覚表象としての「図式空間」の切断面を連続せしめるものは、人間大衆の歴史的意欲の方向即大衆の社会的生活より生る矛盾の欠乏感なのである。これは、また同時に歴史を鋼金のように縦に貫いている歴史的主体性に他ならないのである。
また逆にいえば、この非人情な「図式空間」と「図式空間」のカットの切断面が大衆の歴史的主体的意欲を撃発するともいえるのである。ここで非人間的「図式空間」が歴史的主体的感情を発生せしめることによって、主観的手続よりもより高い次限において人間性を復活するのである。
人間は、自分が見失っていた自らの方向を、カットとカットの隙虚の中に撃発し復活するのである。社会的矛盾と欠乏を媒介として、自らの本質を明るみにもたらすのである。
この社会的矛盾と欠乏に面する切断空間、この断崖、この断崖に面するこころ、これが実は歴史を嗣いで来た人間の根本的歴史的パトスである。この世の中が果して善くならしめることが出来るのか、とても善くして行くことは不可能なことなのか、実戦の苦悩の果に面する人類の嘆声、これが、歴史の面する「切断空間」である。この断崖に立った人の叫び、これが神話の基底である。日本民族の最初の大衆の集会の言葉「この岩の扉よ開け」との叫び、あるいはモーゼの如く「この海よ開け」の叫びとなるのである。
人々は、何れの生きる瞬間も、この叫びをひそかにその胸三寸に秘めている。それが実に、歴史を嗣ぐこころであり、歴史的主体的精神である。支那の最古の芸術批評家は詩経の批評にあたって、「詩は志なり」「詩は刺なり」といっている。善くして行けるか善くして行けないかという切実な歴史的現実へのやむにやまれざる願いと、憤りが、歴史を支える歴史的主体性を構成して行くのである。
この社会矛盾の否定を媒介契機として、自らを連続せしめる歴史的意欲、即歴史的主体性が、実に、映画においては、カメラが描く、図式空間の切断面の連続にあたって、他の芸術部門よりもより重要な契機となるのである。このことは映画芸術の将来において、深く重要視さるべき条件となるのである。
私は映画の空間を論ずるにあたって、余りにも遠く展望をひらいたかのようであった。しかし、今立っているこの現実地盤の何の一粒の砂も、原始よりの歴史の名残りでないものがない限り、私は遠い歴史の迂回を余儀なくせられたのである。そして、現今の映画のカットとカットとが多く瑣末主義的な自立主義描写に陥っているにあたって、凡てのカットを一本の鋼鉄が貫くような、歴史的主体的感覚が、大衆の歴史的意欲の線に副うて、刺貫かれんことを要望したい念切なるものがあるが故である。
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