2021年12月13日月曜日

中井正一「集団美の意義」

底本 鈴木正 編『中井正一エッセンス』こぶし書房 2003 pp90-93
底本の底本『中井正一全集』美術出版社
付点部は下線で表現

思惟 しい


本文ここから


 ドラクロアの『シオの虐殺』の絵が初めて現れた時、人々はそれを絵画の虐殺であるといった。新しい美が人々によって気づかれはじむるにあたって、いつでもそれは罵倒されながらその姿を現わす。集団美もその一つかと思われる。

 時の移りは、人間社会の構造をそのままにはしておかない。ことに19世紀から20世紀への移りゆきには、人間の歴史の初めて経験した激しい改革をともなった。

 その最も大きな変革の一つは、機械の出現である。機械の出現は、人間の技術に大きなひろがりと、深さとを与えた。例えばレンズの出現は人の見る眼の達するあたわざる範囲にまで、見る能力をひろげてくれた。望遠鏡はこれまで六千ばかりだと思っていた星の数が実に二重億もあることを教え、顕微鏡は細胞の内面はもちろん、分子運動の内面までも示してくれた。写真術の進歩は、その見たものを、人間の描くよりも幾倍かの正確さと、迅速さと、緻密さをもって把握した。このに活動写真の出現は、その把んだものを動ける姿をもって、再現させてくれた。これらのことは人間の見る世界をまったく根底より変えてしまったと同時に、見かたそのものを著しく動揺させた。

 この「レンズの眼の見かたには特殊な切れた感じ」がともなっている。それは天才の個性あるいは独創に劣らない一つの新しい性格、すなわち現代機械技術のもつ性格なのだ。あたかもルネッサンスからバロックに移った時、時代の手法および題材が性格的に変わったように、19世紀の技術とすっかり違った性格を現代はもったとも考えられよう。

 しかもいっとう大切なことは、その性格の保持者が19世紀では一々の天才であり、その一々の個性のつながりが一つの時代の芸術を築いていたのに反して、現代のもつ「レンズの眼」の新しき見る性格の保持者は、一人の天才、一つの個性ではなくして、多くの個人の秩序ある協力とその組織であることである。この「レンズの眼」の見いだす美わしさ、あるいは芸術は、集団の性格の見いだす美わしさであり、集団の性格が創り出す芸術となるのである。

 かつて人は自分を顧みるに冷たい視線を内に向けたように、集団はみずからの内面を図るに、そのみずからの眼をもってする。その見いだす特殊な美しさ、あるいはその見いだしかたを、私たちは集団美あるいは集団芸術という。例えばレンズによって捉えられたる星雲群の運行軌跡、細胞の内面、光線の示す生物構成、機械の構造、群衆のあるいは軍隊のマッス行進曲、軍艦あるいは飛行機の編隊行動、あるいは飛行機上より見たる大都会の高層建築のマッスなどの視覚に与える美わしさがそれである。

 「見る世界」でかかる変革があったように、「聴く世界」にもまた新たな躍進が企てられた。それは蓄音機とそれにともなうビクトーラ、ならびにラジオ、トーキーの出現である。

 大都会の雑音、飛行機の爆音、群衆のうめき声、ダイナモのうなり、嵐、怒涛、大砲、機関銃の叫喚等々の構成する交響の把握と、その整えられたる再現は、新しい音の構成と、聴く意味の発展をもたらした。例えば、ラジオの運動放送あるいはトーキーを通じて、私たちははじめて、群衆の「意味知れざる叫び声」の集合のいかに人のこころに痛きまでに衝撃的であり、深く何ものかを意味しているかを知らされたともいえる。マンドリンの絃のかわりに、快いダイナモのふるえを音の構成の素材にもっても好いことをまた、人は今初めて気づいたのである。

 見ること、聴くことがそうであるように、「話す世界」も激しき変革を受けつつある。「いう言葉」より「書く言葉」へ、「書く言葉」より「印刷する言葉」へ、「印刷する言葉」より「電送する言葉」へ、言葉は人とともに成長してきた。そしてそれが思惟の世界に著しき変革を与えつつあることを科学は教える。地殻は同時にふるえ、電波の速度が思想の伝播の速度でもあるこの時代に、文学は集団の言葉として新しい形態をその製作の方法とともに結果にあたえつつある。それが漸次、必ず一社会の集団報告の合成が一つの文学を構成する時代がくると信ずる。ラジオドラマは単なる見えざる舞台であってはならぬ。その全体が一つの音響と言葉の組立て、一つのモンタージュであるべきで、新聞、雑誌までが必ず意識的に光と言葉のモンタージュとして、新しき美学の領域に問題となるべきを信ずる。

 かかる意味で今ある集団美よりも、将来あるべき集団美が私たちの興味である。ジャズ、レビュー、スターシステムのキネマなどは拙きその過渡現象である。それが未だ拙劣であるからとて、未来の姿に悲しみをもつ必要はない。

 ギリシャの美わしさは、私たちに秩序の美わしさを与えた。ロマン派の美わしさは、私たちに熱情の美わしさを与えた。今や私たちは秩序ある熱情熱情ある秩序を摑みつつある。それはオルガナイズの情緒ともいうべき新しき魅惑である。万人が一人のために、一人が万人のためにある永遠なる深き愉悦を「物」の上に見いだす新しき装いであり、新しき設計団の横顔でもある。


本文ここまで





見る聞く話す

いう書く印刷する電送する

中井ってやっぱコミュニケーション論の人なんだよな
委員会ってコミュニケーションの渦(綿密なサイクル)であって、その中の回りかたの記述が「論理」で、そのサイクルから外部に出力されたものが委員会の芸術=集団美なんだろうな?
今のものはくだらないが未来に期待できるって言ってる
中井くんがWitcherとかやったらめちゃくちゃ感動しそう

2021年12月4日土曜日

中井正一「映画の時間──映画の主体性の問題に関連して──」

底本 小川徹 編『現代日本映画論体系1 戦後映画の出発』pp.26-29
底本の底本『中井正一全集』第三巻「現代芸術の空間」
底本の底本の底本『映画芸術』1946年9月


筆耕者メモ

摑得(掴得)かくとく、獲得に直した

又 また ひらいた

尚 なお ひらいた


射影手続の群関係って何?

否定の媒介を貫いてってどういうこと?

物資の光学的科学機構 物質の、だと思う 直した

感ぜるを得ない。感ず+否定「ず」連体ではないか 感ぜざる(感じざる)、だと思う 直した

あり限り この筆耕者組版業者何してんだマジ ある限りじゃないのか? しかし限定節に未だって美文じゃないし修正しても完璧にならんのでそのままにしておく


語彙力のNASA──
嘘言(おそごと)うそ。いつわり。そらごと。

その涯(はて)を辿るならば

横る よこほるなのか よこたわるなのか わからない
ゆるがせ 忽せ 物事をいいかげんにしておくさま。なおざり。おろそか。

殷々 いんいん 大きな音がするさま。 殷々たる煌鐘の音 煌黒龍アルバトリオン



本文ここから


1


 映画が物質的視覚から構成されていると言うことは、案外人々が見のがしているところの条件である。

 レンズの光学的作用と、フィルムの化学的印象が、映画の立っている基盤であり、それ等のものが、人間が見ている世界と同一のものであると思っているのは、ほんとに、人間の短期間の習性にすぎないことは、むしろ驚くべきことである。

 しかも、もっとも驚くべきことは、この物質的視覚が、その率直さにおいて、更に、その正直さにおいて、人類全体の信用を獲得したことである。

 人類は、今、百号のカンヴァスに描かれたる悲壮な戦場の光景よりも、ライカの一コマによってスナップされた一状景の方が、何か清新であり、凄壮なる事実感に打たれるのである。

 なぜならば、人々は、レンズとフィルムが、現象に対している関係は、厳密に対応的に、函数的な関係をもって、一点も一線もゆるがせにせず構成されていることを知っているからである。

 宇宙的関係の中に、一回しか起こらない時間の瞬間が、現象とフィルム面の上に、対応関係を構成していることを知っているからである。

 換言すれば、フィルムが写されるときの画面は、射影手続の群関係であるが、未だ物質的自然現象なのである。


2


 人間はこれまで、あまりにも、嘘言を言われすぎている。教師が、裁判官が、またついに国家自体すらが、嘘言の根源となっていることを知っているとき、人々は「歴史そのもの」が「真実そのもの」が孤独であることを感ずる瞬間すら経験したのである。

 嘘言にうずまった人間が、レンズと、フィルムのもつ現象との物質的射影関係にとりすがった心持は判るのである。しかも、歴史的現実の正確さを求めるにあたっては、更にそのとりすがる心持が判るのである。

 私は学生時代、十字街に弾丸に打ち散らばらされている群衆を俯瞰した、十月革命の一スナップに刺貫れるような感動を覚えた経験をもっている。あれが何十号かの絵画の大作で描かれていても、その感動は、その性質を異にしていたであろう。

 物質が、無表情に自分の前に、一自然現象と同じように、革命の高潮した瞬間を、そこに投げ出しているところの事実感に私は打たれたのである。

 歴史的事実は、常に、「聖なる一回性」としての厳粛性を帯びているのである。なぜならば、いかなる泡沫のような現象でも、常に歴史的な本質の表現であるからである。歴史の厳粛性は決して、神に帰する必要はない。それよりも、何人の胸の中にもひそむところの、「この世の中が果してよくなってい行くのであろうか。やっぱり駄目なんだろうか。」この断崖に立つときの苦しい人間の嘆息の故に、歴史は厳粛性をもっているのである。神々も、この嘆息を吐くときにのみ美しいのである。


3


 物質が、自然現象として、歴史的瞬間を把えたとき、それが、人間を深く打つゆえんは、掘下げて見るならば、人間が物質より堕落しているかもしれないという、ソフィストケートされた新しい哲学の懐疑を用意している。

 アナトール・フランスをして「物になりきりたい」といわしめる言葉の背後にも、率直と、正直が、人間を離れてゆくノスタルジヤを表現したかと思われる。

 フィルムが撮った一画面の中の、群衆の斃れている一人を私達が見ているとき、私の見ている一黒点は、その涯を辿るならば現像、撮影、即物質的手続を貫いて、実はヂカにその横っている一人の人間の肉体に、私の眼は連続しているのである。

 それは、歴史的なる聖なる一回性に、私は時間を隔てて、再び連続していることを示すのである。物質の正直さ故に私達は物質的手続によって歴史感を撃発されるのである。

 映画の連続せるコマは、この連続せる時間の再現である。「時間の再現」その事が、時間概念とは自己矛盾しているのである。なぜならば再現できない流動しているものが時間なのであるからである。しかも再現されなければ歴史的時間の意識は生じないのである。

 映画の偉力は、物質的手続を貫いて、この「時間の再現」に向って、各々の個人の時間をダブらせ得ることである。そして歴史的主体性を人間的時間の中にバラ撒くのである。人間の技術の発展史上では。この時間の再現可能、また逆転可能の問題は、人が意識しているものよりも画期的というべきであろう。


4


 映画が時間の流れの中に「時間再現」の機能をもっていること、即歴史の中に歴史をダブらせることで、その落差の中に歴史感情、願い、否定の媒介を貫いての主体性を撃発することを捉えて、その働きを全面的に活用しているのはニュース映画である。歴史がシナリオであり、太陽がカメラであり、人類が俳優であるところの、この大いなる悲劇にもまして、劇的なるものはあるまい。

 それが事実であるという信頼感を、レンズ及フィルムの物質的手続の描写がもっているとき、このフィルムの切断と連続によって、歴史を縦に貫いている人間の願い、即主体性を撃発せしめるとき、ニュースカメラマンが捉えたるところの一つ一つのカットは、実に、新しい世紀の芸術の素材となって来るのである。

 物質が捉えたる時間と時間を自由に繋ぎ合せることで、人間の根底に横っている欠乏、願い、獣から成長した、人間の成長と、その成果により生まるる香気と尊厳を、撃発することは、実に新しい試みといわざるを得ない。

 十年昔に私達が見た『トルクシィヴ』『欧州大戦は語る』等のものは、すでにニュースフラッシュを越えて、計画と歴史を太陽の下にドラマとして取扱った初めてのものである。

 人間が集団大衆となることで、また物質の光学的科学機構の中に沈み込むことで、物質的影像である一コマ一コマを、民衆は歴史的意欲の撃発者として捉えたのである。いかなるレポルタージュも、このフィルムの持つ率直なる報告には嫉妬を感ぜざるを得ない。

 ニュース映画は未だ利潤ニュースであり限り企画に多くの不自由をもっている。これは未だ未来の芸術的素材であろう。


5


 フィルムがその回転数を撮影と映写において変じ得るということは、コマ落、高速度、逆回転、二重写し等の技術によって、多彩な時間的変化をもたらせている。文化映画における植物を写す場合のコマ落し、または弾丸の高速度撮影のごとき、人間が植物の時間の中に歩み入り、また弾丸の時間を追うことすら出来ることを示すのである。電子顕微鏡、望遠レンズの進歩と共に、映画眼(キノキイ)は実に広汎な視野を獲得するに至ったのである。

 かく考えるとき、レンズとフィルム、即「映画眼」の、そのもつ最も大いなる偉力は、それが、一回しか繰返さない歴史的事実を、捉えて、それを再現できるというところにある。そして、その捉え方、再現の仕方に広汎な自由をもっていることである。

 映画が演劇においてのみその資本力を投じられ、発展成長しつつあるのは、演劇の実写、即時間再現可能の機能を単に利用したに過ぎないのである。缶の中につめて送れる演劇として、その便利重宝さを利用されたからだる。演劇映画はそれ自身長足の進歩をして、芸術分野に確固たる地歩を占めたけれど、しかし、レンズとフィルムそのもののもつ偉力は、未だ外に大いなる未来をもっていることを注意すべきである。

 演劇映画といても、カットで連続できることは、演劇よりもなお容易に、多数の時間の同一の今ともいうべき、同時場面に出入出来る可能性を提供する。裏町生活の集団的描写のもたらす芸術的雰囲気は、この同一時間の切断的断的の呈出である。

 この切断の断面を連続するのは、観客である。大衆の歴史的意欲である。映画が、演劇及び文学のごとく、「である」「でない」の説明の繋辞(コプラ)をもっていないことは、この「である」「でない」の判断を、大衆の意欲、歴史的主体性に手渡すこととなるのである。多数の場所に流れている同一の今を、閃光のごとく貫くものは、万人の中にある歴史的な願望である。歴史的主体性である。

 繋辞のないカット、それは進行を止めた歴史の瞬間である。前のめった歴史である。多くの前のめった歴史的瞬間を、一瞬に貫くものは、原子時代より、歴史の未来にまでも、一以て貫いている人間の歴史的嘆息である。「この人間生活が果して正しく導かれ得るのか、あるいはついに正しくは導かれないのか」この実践の苦悩の果に面する切断の空間、深淵が、暗黒が、映画のカットの周囲を取巻いている。

 この深淵に向って、暗黒に向って、深く嘯き、殷々たる反響を測るが如きカットを、私達はいかに待ち望んでいることか。「今」「此処に」大衆と共に、歴史を嗣ぎつつあるという満ち足りたる感激の中に立ちつくすが如きカットに、私達はいかに永く飢えていることか。


本文ここまで

中井正一「映画の空間──映画の主体性の問題に関連して──」

底本 小川徹 編『現代日本映画論体系1 戦後映画の出発』pp.19-25
底本の底本 『中井正一全集』第三巻「現代芸術の空間」
底本の底本の底本 『映画芸術』創刊号1946年6月

筆耕者(当ブログ著者)による注

又或いは ひらいた
に取って ひらいた

劃然 新字にした 画然

彫、刻 汚れもしくは印字ミスと思われるため省いた
始めて 現代用法の初めてに直した

付点はボールド体で代用

構成されるである→構成されるのである 直した

二次限:二次元だけど原文まま

もたらせている もたらしていると現代では言うが原文まま

或は あるいは ひらいた


語彙力のない筆耕者のメモ
奔騰:(相場が)急に激しい勢いで上がること

寂寥 せきりょう

つらだましい:面魂。気魄のこもった顔つき
繋辞 けいじ  命題の主辞と賓とを連結して否定または肯定を表わす語


メンフィスは中王国時代は砂漠じゃない、気持ちはわかるけど

ブラウン運動のたとえは下手
自己、主観が主題になっている箇所があって面白い!!!
 佐々木隆次「第五章 『気』と自我──『気』をつかう」『「気」の精神分析』せりか書房(2011)とあわせて読むとめちゃくちゃ良い

歴史的主体性ってヘーゲルのガイストの翻案だよな?

 なんで接続作用って言うにとどまらず主体性とまで言うのか、理由を説明できたらいい研究になると思うんだけど


本文ここから


1


「認識は自己の生活の中に含まれていないよう連関を作り出すことが出来ぬ」と哲学者はいっている。

 空間の認識でもそうである。自分が社会の中に生活としてあるあり方、社会への姿勢、生活への腰のすえ方、これが、空間の感じ方を導いて決定して行くのである。

 生活のたて方が、何かオドオド畏れにみちているものにとっては、空間は一つの畏れとしての構造をもって人々に押し迫って来る。またあるいは、何を見ても、物は皆自分の欲望の自由な対象であると見えるものにとっては、空間は拡がり延びるところの延長の連続として感ぜられ始めるのである。

 空間が畏しいものであると感じているものにとって、この空間は自分を中心として自由な延長であると、いくらいって聴かせても理解できないのである。何故なら、彼は生活の自由を知らず、世界への自分の関係が暢びのびした拡りであることを生きた意味として理解できないからである。

 一芸術批評家は、エジプトの造形意識は「空間への畏れ」であると指摘している。あの広い砂漠の中にポックリと築かれているピラミッドを考えて見るとき、それは盛上がったと感ずるよりも、人間の営みを取巻く無限の時間と空間の空漠たる圧迫の中に、僅かに、これだけの限界をもって与えていることの徴しとして、空間を区切っているかのようである。この一批評家の言葉に、全世界は、「あ、そうか」と目を瞠ったのである。

 ナイルの氾濫と炎熱の中で、砂漠に取巻かれた峡谷に生きるには、数百万の人々は唯一人の帝王の意志に従わねば生きられない巨大なる国家奴隷の集団として屈服せしめられたのである。四千年もの間、彼等はかかる生活をなして、かかる空間意識を決定したのである。深く巨大な諦観とでもいうべき畏れの空間の意識を決定したのである。

 世界の隅々に、いろいろな形で存在した奴隷制の意識、それを彼等は空間の中に、一つの徴しとして、画然と地上に置いて去ったのである。われわれは、この造型を通して、彼等の生活への嘆息にヂカに触れることが出来るのである。

 私達はこれを「虚なる空間への畏れ」とでも呼んで置きたい。


2


 原始共産体崩壊より奴隷制に推移したギリシャ人は、異った形で空間を意識し始めている。奴隷制の類型がエジプトとは異っていたからである。リーグルはギリシャの彫刻において初めて内面的寂寥が出現すると述べている。獲て来た食物をみんなで分けあって喰っていたわけ前(モイラ)──後にはそれが運命という言葉の意味をもって来たのであるが──が最早協同のものではな口して、自分一人のものとなるとき、人々は生活の外側を包んでいる無限なる空虚に対して、共同に構成すべき構造体の意識を失ってしまうのである。そして、独りになりつつあることへの驚きがギリシャ彫刻の歴史の意味となって来る。エジプト及アッシリヤの外なる世界、虚なる空間に力づよく反発する彫刻と対比して考えるとき、その感を新にせしめられるのである。ギリシャの運命悲劇と称せられる悲劇の構造とも放つべからざる関連を見出すのである。

 パルメニデスにおいては、外側に無際涯に拡る空虚な空間を認むるよりも、むしろその内側の空間に間隙があるか否かを問うているのである。アナクサゴラスは外なる空虚が実は空気で充たされているのであって、真の空虚は存在しない事を証明するのであるが、その空虚の存在が要請さるる動機となるものは、物と物を分ち区別する間隙の可能がここでも問題となるのであった。この孤立と間隙を与えるところの混沌が「場所」(トポス)と呼ばるる空間意識なのである。論理の世界でも、その議論の交わさる未整理の疎開跡のような荒れたる場所、それがトポスである。トピック話題なる言葉はそれからやはり来ているのである。ギリシャを征服したマケドニヤの王アレキサンダーの家庭教師であるアリストテレスでは、この孤々分離の混沌トポスはやがて、秩序の一鞭をもって上と下の位置順序を持つ「形態の幾何学」とでもいうべき、後の三位一体の如きイエラルキー身分空間を構成するのである。人類の大いなる禍であるところの封建制度はこの身分空間を自らの生活をもって、嘗め味い、アリストテレスの哲学は近世の初頭まで多くのアレキサンダー即封建領主達の城門を固める鉄鋲となったのである。


3


 ガリレオ以後の科学の黎明近代空間の出現はこのアリストテレスの身分空間の崩壊より始まるのである。人々は「人は人に対して狼である」という奔放な喜悦をお互にぶっつけ合って、もはや上と下、獅子と羊のみずんは最早なくなったんだと、確かめ合うのである。かくして上と下の身分空間は壊え去るのである。それは大いなる哄笑である。租税にあえぐ土地から放たれた海の上で、暢びのびと何物をも疑うことが出来る自由を自分がもっていることに驚嘆し、自分の理性と判断が星をも軽侮するに足るだけの精緻さをもっていることに胸をふくらました自由通商の人々が達した一つの態度なのである。

 それは王笏をもった帝王達を哄笑しはじめる商人達のつら魂が先ず掴んだ感覚である。自己を発見した多くのコロンブス達の描きはじめる地図である。

 自己を発見した人間の空間とは何であるか。それは即「遠近法の空間」の出現である。

「今」「此処に」自分が立っていることを意識し、自分が物を考えているんだという事を意識しはじめたということは、容易ならざることであったのである。ここまでに達するためにいかに多くの科学者、思想家が火であぶられたり、牢獄に呻いたかわからないのである。愚劣な身分空間の底敷となって、その愚劣の重さに驚嘆したかわからないのである。

 自分が立っているところからながめやるところの永遠の一点に向って、全世界が遠くなるほど小さくなり集中されているところの遠近ある視野の体系の世界があることを発見したのである。

 これは世界をまとめることの出来る中心が各々の個人のその基底をもっていることを意識することなのである。これは人々にとって信じられぬ程の魂の変革を要したのである。

 日本で司馬江漢が絵画に導入し、近世浮世絵で人々が試みるまで、日本人にとっては、かかる画法は一つのバテレンの奇妙さの一種でしかなかったのである、

 この新たなる空間の出現は一美術批評家の言葉を借りれば「体系空間」の出現である。一人の人間の視点が確立して、その視点を軸として全世界の体系が構成されるのである。即人間が世界の観察者として、即「主観」を確立したのである。

 絵画はこの世界への態度にとって、最もふさわしい表現態度として、それを完成したのである。絵画が真の自らの威力を発揮したのは、この観察者としての描写の空間の体系を構成する立場においてである。スペインの帝王の艦隊を打破ったオランダの商人達の海賊船隊の中から生え出でたレンブラントの絵画以後、絵画は人間と太陽の中に、その体系空間の確立を光の洪水をもって高らかに歌ったのである。

 ここではデカルトが確立したように空間は延長なのである。人間の意志の拡りが権利であるように、自由の感覚も、また、この延長の空間的感覚の生活的理解だったのである。

 最早ここでは空間は畏れではない。また身分の重圧の集合のイエラルキーの空間でもない。自由な、個性と欲望の豊かな氾濫、光と線による自分の視方の構成の体系の誇示なのである。

 それは、しかし永遠の体系ではあり得なかった。ゴーガン、ゴッホで、その個性の豊さは最高の点にまで達し、漸くそのカタストローフその空間の破壊が支配しはじめたのである。つまり人間がその人格の存立を自らの生活の中に崩壊しはじめたのである。

 近代資本主義はアダム・スミスの自由論の段階にはふみ止まってはいなかったのである。すでに資本主義の根底にある手形的取引の中には、最早、人格と人格の契約といったところの、主観と主観の二つの体系が組合って構成する秩序を砕き去るところの遙かに次元を異にした体系機構を用意しているのである。金融経済のもつ国際的体系は、最早人格と人格の相互の信用といった個人的構造を遙かに越えて、人間が一片の破片となって、その巨大なる機関の中でキリリキリリと分子のブラウン運動のように回転しはじめるのである。

 巨大なるブロック資本の重工業の機械生産の中で、人間は新たなる貧窮の意味を知りはじめ、個性の喪失を味って慄然としはじめるのである。ムンクの寂寥からはじめて、表現派より、シュープレマティズム、シュールレアリズムに至るまで、彼等は最早確固とした自らの観点を失ったのである。利潤という機能は利潤追求の方向に向ってのみ走って、人間そのものを無方向たらしめる。方向の体系を失わしめる。即自分の個性の中に哄笑しつつ築きあげる体系空間を失って、深い戦慄の中に、いわば一つの「図式空間」を構成しつつあるのである。それはすでに方向をもつ体系ではない。単なる無方向なる図式である。絵画の危機と呼ばるるものはそれであり、また、それを描かずにいられないのは人間の生活の危機そのものの嗟嘆が、その根底に横たわっていることを見のがすことが出来ないのである。


4


 絵画の危機の始まるときから、皮肉にも映画はその神を恐れざるものの表情をもって、芸術の世界に歩み入るのである。

 レンズの見る見方を人間の見方であると何時とはなしに承けいれた人間の同意は、どんな国際委員会も叶わない専断的説得力をもっていた。

 人間の目の焦点は、二ミリ平方位にしか合わないのである。その二ミリの焦点をもって、人間は世界を撫ぜ回して。世界を観察し、世界像を造るのである。写真の見方が人間の見方であるというのは一つの申合わせようなものである。レンズの角度は難度が最も妥当であるかは全くの疑問の中にあるのである。しかし、世の写真機製造業者はこのレンズという非人間的世界観察者を人間が見るものとして、人類の中に呈出しているのである。そして、人間は逆に、レンズの見方に従って世界をそう思込もうとしているのである。この見方は実に、人間が付託したところの物質の見方である。自己がその観点を意識するこれせいを奔騰させる自由人間の築上げる体系の空間ではない。

 世界に単に対応関係をもっているところの徹底した「図式空間」なのである。人間集団の構成する物質の見方なのである。

 この徹底した物質的視覚としての「図式空間」から映画は出発するのである。

 しかし、問題は、この固定された「図式空間」であるフィルムの各々のコマが連続して、人間の残像の中に一つの時間を構成することから、更に展開して来るのである。

 二次限的な「図式空間」が時間の中に連続することから、カメラは同一地点で連続して回転視することが、更にまた移動しながらの視覚が可能となる。そこで映写幕は二次限であるが、映画は彫刻の三次限性をも超えて更に四次限空間の芸術となって現れるのである。しかし、真の問題は、それがその物理的時間性をも乗越えて歴史的時間を確立するところにむしろあるのである。映画の非人間的「図式空間」が、かかる歴史的連続の一連続体となることで、人間性を巨大なる展開をもって回復するところに深い注意が払われなくてはならない。人間性を奔騰せしめる主観を確立した「体系空間」よりも、もっと高度に、人間の歴史的感覚を呼びさますものとして、「図式的空間」がその役割を果すことを忘れてはいけない。即「主体性」の出現がそれである。


5


 フィルムを鋏で切り、アセトンで継ぐことが出来ることは、普通考えられているよりも重大な変革を芸術の世界にもたらせているのである。一つの場面と、一つの場面がカットで連続しているとき、各々の場面は各々の表象を人間に呈出している。しかし、その表象の連続にあたって、文法でいうところの、「である」「でない」の繋辞が欠けているのである。非人情の「図式空間」と「図式空間」は、繫辞なしの「切断」をもって連続しているのである。

 製作者がその「切断」を何等かの意図をもって連続したつもりでいても、戯曲、小説におけるように繫辞による説明展開を観客に要請するわけにはいかないのである。

 この「図式空間」と「図式空間」の「切断」を連続するのは観客大衆の自らの「感情」なのである。

 ここで私は感情なる言葉の定義を厳密にするを要するのである。クルト・レヴィンは、空腹の「知覚」を感情たらしめるのは、生きているという根源的方向への力学的動きが、空腹の知覚を飢えの感情として力学性をもたらしめるのであるという。凡ての知覚が、方向をもった力の関係に置かれること、この知覚の歪みが「感情」であるということは私達には示唆深いものがある。

 今映画で知覚表象としての「図式空間」の切断面を連続せしめるものは、人間大衆の歴史的意欲の方向即大衆の社会的生活より生る矛盾の欠乏感なのである。これは、また同時に歴史を鋼金のように縦に貫いている歴史的主体性に他ならないのである。

 また逆にいえば、この非人情な「図式空間」と「図式空間」のカットの切断面が大衆の歴史的主体的意欲を撃発するともいえるのである。ここで非人間的「図式空間」が歴史的主体的感情を発生せしめることによって、主観的手続よりもより高い次限において人間性を復活するのである。

 人間は、自分が見失っていた自らの方向を、カットとカットの隙虚の中に撃発し復活するのである。社会的矛盾と欠乏を媒介として、自らの本質を明るみにもたらすのである。

 この社会的矛盾と欠乏に面する切断空間、この断崖、この断崖に面するこころ、これが実は歴史を嗣いで来た人間の根本的歴史的パトスである。この世の中が果して善くならしめることが出来るのか、とても善くして行くことは不可能なことなのか、実戦の苦悩の果に面する人類の嘆声、これが、歴史の面する「切断空間」である。この断崖に立った人の叫び、これが神話の基底である。日本民族の最初の大衆の集会の言葉「この岩の扉よ開け」との叫び、あるいはモーゼの如く「この海よ開け」の叫びとなるのである。

 人々は、何れの生きる瞬間も、この叫びをひそかにその胸三寸に秘めている。それが実に、歴史を嗣ぐこころであり、歴史的主体的精神である。支那の最古の芸術批評家は詩経の批評にあたって、「詩は志なり」「詩は刺なり」といっている。善くして行けるか善くして行けないかという切実な歴史的現実へのやむにやまれざる願いと、憤りが、歴史を支える歴史的主体性を構成して行くのである。

 この社会矛盾の否定を媒介契機として、自らを連続せしめる歴史的意欲、即歴史的主体性が、実に、映画においては、カメラが描く、図式空間の切断面の連続にあたって、他の芸術部門よりもより重要な契機となるのである。このことは映画芸術の将来において、深く重要視さるべき条件となるのである。

 私は映画の空間を論ずるにあたって、余りにも遠く展望をひらいたかのようであった。しかし、今立っているこの現実地盤の何の一粒の砂も、原始よりの歴史の名残りでないものがない限り、私は遠い歴史の迂回を余儀なくせられたのである。そして、現今の映画のカットとカットとが多く瑣末主義的な自立主義描写に陥っているにあたって、凡てのカットを一本の鋼鉄が貫くような、歴史的主体的感覚が、大衆の歴史的意欲の線に副うて、刺貫かれんことを要望したい念切なるものがあるが故である。


本文ここまで