底本 岩見照代監修『「婦人雑誌」がつくる大正・昭和の女性像』第26巻 教育2 ゆまに書房
底本の底本『婦人之友』昭和25年12月1日
中井正一(国会図書館副館長)
矢島祐利(東京理科大学教授)
羽仁説子
筆耕者(ブログ著者)註
仮名遣い・漢字を現在の用法に変更している
当り→当たり 又→また など
一四〇→140のようにアラビア数字に改めたところも
書名は原文にならってカギカッコのまま、二重カッコにはしていない
誤りのように思われるところでも原文ままとした箇所がある
絵に書いて 落付く など現在しない漢字の使い分け(描く、着くには直していない)
「とうも‥‥」これは発音上は「どうも」?
時・とき、達・たち など漢字開き揺れ
チエルユスキンの大小揺れ
接しられない 活用ミス?
ああしたものの病みつき 助詞ミス?
私共はこれを和冠戦法をよんでいますが 助詞ミス?
影響ですね、 文末の読点
いくとゆくの取り違えに注意したつもりだが、厳密には底本を当たって欲しい
中井は科学的を統計的の意味で用いている
「批判するよりは機構を作ることが必要なのです」という思想
本文ここから
羽仁──クリスマスやお正月も近いので、子供たちのおくりものに本について考えられることが多いと思いまして、最近私ども、婦人之友の読者のあいだにある子供と読書についてのいろいろの問題を調査してみました。
調査は七歳から十三くらいまでの子供の本について、あまり多い数のものではないのですが、最近、お母さん方が子供の読書について苦労されているとみえて、調査票のかえって来る率もよいし、備考にはさまざまの質問が書き込まれておりました。
◆一年に何冊買えるかという問に対しては、一年に二、三冊が多い。これは一人当たりの数なので、兄妹の多い場合は、はっきり勘定出来ないけれど、一人としてはもっと読むことになりましょう。費用は平均一人当たり140円、できれば250円は欲しいというわけです。
冊数 | 人数 |
20 | 5 |
17 | 2 |
12 | 6 |
10 | 7 |
8 | 11 |
5,6 | 13 |
4 | 6 |
2,3 | 46 |
1 | 4 |
◆本は誰が選ぶかでは、母が一位、父はその半分です。やはり子供の読書については忙しい父親より母に関心があるようです。
◆友達から本を借りてくるかの問には90%が然りと答えています。借りて来る本の種類は漫画がだんぜん一位、少し落ちて雑誌、漫画は家庭で買ってやる気にならず、そこで子供は友達から借りて来るというわけでしょう。
◆母親がいいと思った本
1位 | 小公子 |
2 | アンクルトム |
3 | リンカーン伝 |
4 | アンデルセン童話集 |
5 | ビルマの竪琴 |
6 | グリム童話集 |
7 | アルプスの山の娘 |
8 | 濱田廣介童話集 |
9 | フランダースの犬 |
10 | クオレ |
母親があげている良い本300のうち科学のものは10%でした。
◆次は子供の好きな本
1位 | 小公子 |
2 | アルプスの山の娘 |
3 | アンデルセン童話集 |
4 | 小公女 |
5 | グリム童話集 |
6 | 若草物語 |
7 | おさる博士 |
8 | ロビンソン漂流記 |
9 | サザエさん |
10 | フランダースの犬 |
親子ともあまり新しい書物を見出していません。
子供のための科学の本
羽仁──母親の質問のなかで意外に多かったのは、子供に科学 的な本を読ませたいが文学的なものを好む。どうしたら科学的な本をよろこぶようになるだろうかというのでした。
矢島──それはなかなかむずかしい問題です。しかし、そういう問題をはっきり捉えられるようになったのはお母さんの進歩ですね。お母さんたちが科学の本を良く読むようになったら、その子供たちはいくらか科学の本が好きになるかも知れません。いくら科学の本をよめと言っても、お母さんたちが非科学的なことばかりしていたのではとうも‥‥。
羽仁──子供の中には、理科は好きだが、本となると喜ばないというのもありました。
矢島──それは与え方が良くないのでしょう。与えた本が、現在子供の持っている興味とずれているのでしょう。興味を持つのに時期がある。その時期をとらえて、本人が具体的な問題を持っている時に適当な本を読ませれば、きっと喜んで読むでしょう。ただ漠然と科学的なものを読ませたらいいだろう位で買ってやっても、ついてゆけないことが多いかと思います。これは、今日の話題からは離れるかも知れませんが本を読むのは嫌いだが理科は好きだというのは、それでいいでしょう。
羽仁──科学者の伝記などで、小さい子供のために親が読んでやってよいものが相当あらわれて来ましたが、科学の雑誌には小学生むきのものはないようです。
矢島──科学の雑誌ともなると小学生むきというのは無理でしょう。年齢的に、もっと大きくなってからですね。科学者の伝記というものも小学生にわからせるにはかなり限度があると思います。
羽仁──シートンの「動物記」は科学的に曖昧ではないかと批評している方があったようですが、文章は美しいし、うちの子供も小さい頃よろこんで読みました。文学と科学がごっちゃではいけませんが、ある年齢の子供たちには、それを一緒に考えることがあってよいのじゃないかと思いますが。キップリングの「ジャングルブック」もあります。
矢島──小さい子供の場合などそうだと思いますね、まだ科学だの文学だのという区別は実はないのですから。
羽仁──また一方、幼児生活団の子供たちでみていますと、物理的な疑問を持っているといっては大げさになりますが、ドアを開けたり閉めたりすることに実に興味を持っています。ドアがどんと音がして閉まるときはどんな時かと半日でも飽きずに眺めて遊んでいます。今まで童謡でうたわれているような、牧場の門にのってギーコン、ギーコンして遊ぶというようなことには、実は物理的裏づけの必要なことを子供たちが知っているのですから、それを科学的にアドバイスする必要があると思います。テコの原理にも興味があるようです。そういう小さい子供たちに物理のことを分からせるような絵雑誌を作ったらよい、積木などをしているときにもそれを感じます。
矢島──それを表現することはむずかしいので、現在そうした本ですぐれたものは少ないでしょう。しかしあるべきだと思いますね。科学専門の人はどうも表現の方法が限られていて面白く話すことがむずかしいのですね。下手をやると科学を押売りするようになりがちです。科学科学と言わずに科学がしみ出しているようなものがよいと思いますが。
羽仁──牧野富太郎先生のお話──スミレが一粒の種から芽生え、それがみのってはじけてとんで、二株三株とふえる、またその場所からとんでふえてゆく、まわりの雑草をききれいに抜いた場所でその実験をしてみる、何代もかかって草がふえてゆく法則のお話──を、実に芸術的なお話だと思って伺ったことを今思い出したのですが、このお話を絵に書いて本にしたら、よいものが出来ることでしょう。
矢島──それはよいサンプルです。ほんとうにすぐれた科学者がやればそういうふうに行くはずです。
羽仁──最近出たものでは、これも翻訳ですが日本評論の「科學の 繪本シリーズ」(150円)の「もののなかがみえたなら」や「それはいつたいなぜでしょう」などもよいと思います。
矢島──よくできていますね。色の感覚もたいへんいい。
中井──子供の化学の本には絵をかく方の理解と協力がぜひ必要です。
矢島──毎日新聞の「目で見る社會科」(50円)のうち「こよみと生活」というのをチョットみましたが、これもよくできていましたね。
羽仁──母と子が夜空を眺めながら一緒に読めるような本と聞いてきた母親がいます。
矢島──夜空を見ながら楽しくということになると、まあ星座物語などでしょうか。野尻抱影さんのものなどいろいろあるようです。
羽仁──天文の方で望遠鏡の進歩をかいたものなどはどうでしょう。天文の雑誌はないでしょうかという質問がありましたが。
矢島──望遠鏡の進歩は少し専門的になりすぎはしませんか。天文の雑誌には「氣象と天文」というのがあります。しかし小学生にはまだ少し早いですね。中学か新制高校程度でしょう。
中井──私はこういうことを望んでいます。科学を神話的に取扱うというか、科学の中に神話的なものを取り入れてゆきたいと思うのです。例えば人類がはじめて二つの足で立って手を自由に使えるようになった、言葉を発見した、そういうことは昔は気がついていなかったけれど、科学的にいってみると人類の革命的進化であったのです。そこにまた大きな創造の力を考えなければならない。宇宙の中に法則があることに人間が気付き、人間がものを思いはじめたということ。今日のように出来上がったもののなかで人間がこせこせと動いているべきではなくて、もっと大きなところに人間の目を注ぐべきことをわからせなくてはならない。それが科学的な態度として考えられなくてはならない一つの重点だと思うのです。文化という意味は神話的な新たな表現だと思います。
羽仁──イーリンの書いたもの「人間の歴史」「時計の歴史」(岩波書店)などがそうした扱い方をしておりますね。ホグベンの「繪とき人類史」のなかの「大昔の生活」(日本評論社200円)なども、そうしたものの土台になりましょうね。イーリンやホグベンのものは、五、六年の子供によいと思います。
雑誌と漫画本
羽仁──今度の調査によると、90パーセント以上の子供が毎月何かの雑誌をとっています。雑誌は子供の読書にとって、相当大きな部分をしめているわけです。一番多いのは「小學何年生」という雑誌です。これは学校で習う教科書に合わせて参考書にもなるように出来ていますから、理科的なことも取扱っています。次の「銀の鈴」はこれも教科書と歩調を合わせ、この雑誌は学校を通して販売されています。他に「何年の學習」これも似たようなものです。
矢島──昔の全科詳解のようなものですね。それに読物が加わったというところですか。親もまたそういうものに頼ろうとする気持ちが強い。それはまだ雑誌として一歩遅れている形といえましょう。
中井──図書館などでもやはり雑誌類は喜びますね。私の子供は三年生ですが、「小學三年生」を読んでいます。こういうものがマンネリズムからだんだん脱皮して、よい雑誌になってゆくことが望ましいのですが。
羽仁──しかし母親たちは雑誌がよくなるのを待てない、子供が意味のない雑誌をいくつも借りて読んでいるのにたえられないようです。
中井──文化の指導は一歩先んじては過ぎるので、半歩先んじるのがよいといわれています。一寸先に進めてゆくのがよいのです。一歩先んじてしまうとよいにはよいが、存在し得ないということになってしまいます。二、三年田舎にいっておりますと、都会の規格で作られた本は田舎では綺麗好みに見えて来る。変ないい方ですが、嗅いでみてプーンと肥料の臭いがするような本がいいんですね。
漫画などに問題がありますね。今の漫画には忍術漫画が多い、飛行機だロケットだと一見科学的ですが、しかし、それを動かしているものは、実は荒唐無稽なものです。その意味では低級な漫画はただナンセンスだというだけではなく、逆の教育効果をもつということをに注目しなくてはなりますまい。
羽仁──ユーモアを持つということは、大変いいと思うのですが、今の漫画の持っているものとユーモアとは実に離れているようです。いいユーモアと結びついた漫画を考えてほしいものです。
矢島──漫画の中に高級なものと、そうでないものとがあるのでしょう。子供に好かれるのは子供に迎合的なもので、子供を引き上げ流ようなものはありません。そういうのをなくしてしまって、引き上げるようなのを見せていれば、その方がいいということがだんだん分かると思いますが。
羽仁──子供の好きな本の中にサザエさんがかなり含まれていました。
矢島──絵としても旧態依然ですね。もう一寸新機軸のものが欲しい。ありふれた顔ばかり出て来ますね。
羽仁──漫画ではせめて自分の家庭では接しられないひとびとについて、子供が親しみを学ぶようなものであったらよいと思うのですが、サザエさんは私小説風というか、子供たちが見聞きしている事柄を扱っているからよみつきよいというだけで、発展が感じられません。
探検記、冒険もの
中井──私どもの家の近くて見られる紙芝居などの実情はなかなかすさまじいものですよ。子供はスリルがほしい、英雄的な行動を喜ぶ、しかし紙芝居の話には、如何にしてここまで到達したかということがなく、全然断片的、スリルのためのスリルです。
羽仁──ザンバなどの動物映画はそんな意味でよかったと思うのですが、この頃それに代わるものはないでしょうか。
中井──今の子供はターザンに夢中です。あれは一つの英雄と思われているが、危険な目に遭う、それに対する期待と追求があるだけで、ロビンソンクルーソーに見られるような、人間の発展を示すもののないのが物足りませんね。
羽仁──ずっと前満鉄調査部で訳して出版した「ウスリー探検記」というのは、気候や動植物などについても詳しく書いてありますし、探検者の行動にロシア人のねばり強さがよく出ていて、民族の性質をあらわしているのも興味深く、子供も喜んで読みました。
中井──「チェルュスキン號の最後」「ロビンソン漂流記」「十五少年(岩波文庫)」の三つは私もぜひ子供によませたい冒険記と思っています。ロビンソンは個人が如何なるプロセスで生活技術を身につけたから、十五少年の方は、どう協力してそれを築いてゆくか、チエルユスキン號では氷の上に如何にして人間が社会を築いてゆくか、また一方、電波でもって人間社会と連絡を取りつつこの遭難の社会をまもってゆく。この三つは人間社会の構成を示しているという点でなかなかいい本です。
センチメンタルな読物
羽仁──女の子がセンチなものを読むということも問題になっています。
中井──文学というと悲しい涙の出るものとなっているようですね。私は家内を亡くして痛切に感じるのですが、日本の童話には、常に継母が出てくる、室町時代の話でも継母が出て来ますね。どうしてあんなに家庭悲劇を扱わなくてはならないものか、私は自分の母に子供を見てもらっていますが、母が孫に見せたくない本ばかりだと申します。あんまりいじわるな継母の話を読ませると、新しい家内を貰えなくなってしまう。文学というものは、家庭悲劇なしには生まれないものなのかと思います。アンデルセンやグリムにも継母がよく出て来ますね。どの位の割合で童話に継母が使われるかパーセントを出して科学的に研究してみたいほどです。
羽仁──小さい子供のセンチメントは大人の考えるような決してジメジメしたものではなく、子供はむしろけなげな話に泣いたりします。
中井──子供はまだ原始共同体の頃の人間社会のような原始的なところがあるのですね。二つの足で立つ、言葉を発見する、そうした勝利の歴史は、人類の中で十万年二十万年続いているのです。人類は最近ほんの何千年前封建的な社会をもつようになり、いじわる婆さんだの、むごい主人だの、継子いじめなどを生むようになったのです。その前の二十万年は目に見えない人類の協力の歴史です。文学にはもっと人類の本質的な明るさがあってよいと思うのです。
羽仁──いわゆるセンチなお話は子供に読まれない大人が苦心すべきですね。子供たちがああしたものの病みつきになるのは大人の苦心が足りないからだと思います。
写真と絵──視覚教育
羽仁──最近では日本でも岩波の「寫眞文庫」「アメリカ」「木綿」「富士山」など(各100円)も出来て写真を主にした本がふえて来ました。写真は目から子供に訴えますから、せいぜいよい写真をみせたいものです。ニュース映画を本にしたようなものがあると面白いでしょう。
中井──ニュース映画もちょうどあれが世界にひろがり始めた頃のものはようございましたね。パラマウントのものなど面白かった。この頃のはつまらない。
羽仁──今日アサヒカメラを見ておりましたら、アメリカのダムの写真がとても美しく出ていました。日本ではダムというと必ず地方の反対があるようですが、ああしたいい美しい写真を見ると、自分の家の埋れることばかり考えなくなるでしょう。
中井──ダムの美しさ、ダムの造られる前の自分の家と、その後の自分たちの生活の構造を比べて見せるとよいのですね。鋸を使って木を切っていたのが、ダムが出来て容易に材木になり紙になる、その関連をもった説明がありましたら、技術が神話であることがよく分かると思うのです。ドン河の制服は、かつて荒馬を制服した人間の歴史と同じものです。アメリカのテネシーバレイについても知っておられない方が多いのですね。
羽仁──翻訳で「少年TVA」(東京堂)という本が出ていましたが。
中井──「丹那トンネルの話」(岩波書店)アフリカ伝導のシュバイツェルの文化を拓く話、「光と愛の戰士」は、二つながら深い感銘を受けた子供の本です。多くの人達の罵詈讒謗を受けながら、不可能を可能にしたエキスパートの苦心、大きな山を貫く神話的な巨大な詩もあれば崩れて人が死ぬドラマもある。こうしたものがもっと読まれてよいのではないでしょうか。
羽仁──私は子供たちの絵本としては、あれらにも写真や絵がほしいように思います。前に、子供之友でファーブルの「家畜の歴史」を絵ときにして取扱ってみました。読むと十歳位の子供達にはむずかしい点もあると思うのですが、おもしろく読んでもらえました。あれは五郎さんの案で反響がありました。
矢島──たしかにそうですね。絵か写真を見せれば説明など殆ど要らないものが沢山ある。
羽仁──日本では値段に制約されるので、綺麗な写真や絵が少なくなるのですが、図書館などが盛んになって、そうしたところで十分購入されれば、子供の本として極くよいものと思います。近代的な感覚を養成するために、もっときれいな写真の本の普及がのぞましい。
中井──子供たちはライフの綺麗なご馳走の写真をみて、いつまでも楽しんでいます。
羽仁──学齢前の子供は写真に興味を持ちません。絵に限りますが、小学校三四年になれば写真の方を珍重します。グレアムの「ヒキガエルの冒險」(英実社200円)というイギリスの童話がありますが、デズニーが絵にして映画化し、日本にも輸入されるようですが、勿論読んであたたかい、楽しい話ですが、絵で、映画でもっとたのしくあらわせそうな気がします。
読書の環境をつくってやる努力
羽仁──漫画が子供たちに好かれるのは、今の家庭環境がゴタゴタと騒々しく、集中して本が読めないことにも原因がありましょう。私共の小さい時のことを考えてみますと、静かな環境でわずらわされずに本が読めたのですから。最近の子供は落付かない。お話や紙芝居を見せると、その違いがよく分かります。
矢島──戦争の影響ですね、
羽仁──学校図書館が落付いて読書できる場所になるとよいのですが。若い人達も一体に本を読む集中時間が短いようですね。
矢島──たしかにそうです。その点漫画は一寸の時間で簡単に一くぎり読めてしまいますから、そうした単純なもの、手っとり早いものを好むようになるのでしょう。子供に根気よく読ませるためには周囲の空気が落付かなければ駄目です。
中井──と同時に、そうした現状においては、書く方も、子供には、長くかかって結論の出るものではなく、小さなテーマがいくつかあって、そこを何度も繰り返して読めるものをつくる努力が欲しいと思います。スローガン的な言葉にまとめて、わからせようと思うところを頭にいれるように、はじめに、また途中に、あとにおりこんでゆく努力が望ましいのです。
羽仁──小見出しを沢山つけるわけですね。いわゆる大衆雑誌をだしているところでは、こちらが相当こまかくわけて書いたつもりでも、あとで出版社からすみませんが、もう少しくぎって小見出しをふやしましたといってくる。これには考えねばならぬことがございますね。
中井──私が広島におりましたときの話ですが、図書館で講座をひらき、私自身がこれを担当して苦心しました。六ヶ月というもの二、三人しか聞きにこない、十人位に殖えるとまた減ってしまう。そんなことをくり返して自分で反省してみたのです。いっていることがたとえよいことであっても表現が下手です。それで考えたことが小見出し、つまりいいたいことをにぎりしめた一つの標題にするということと、も一つはいわんとするテーマが四つ以上あると多すぎるということなのです。四つ位話すと、そのうち三つは持って帰るが一つはわからなかったというのではなく、問題が多すぎると四つともみな落として帰ってゆくのです。本をかくときにも同じ考慮が必要でしょう。読んでしまって、何だか面白かったようだけれど、何にも残らなかったというように。
羽仁──子供自身はあまり本を読まないが母親がよんでやるとよろこんで聞いているがどうでしょうというのがありました。もちろん字の読める子供の場合です。これで読書力がつくだろうかという質問が一つ二つありましたが如何でしょう。私はある程度、読書力を育てることになると思いますが。
矢島──それはいいでしょうね。お母さんが本を読んで下さるということが子供の読書欲を誘発することもありましょうし、手を引かれて歩いて行くようについて行く場合もありましょう。それには子守唄のように眠らせてしまうのではなく、手を引っぱって歩かせるというつもりで読んでやることが必要でしょう。
羽仁──母親が読んでやるときには、先ほどお話の小見出しの代わりに、ときどき母親がその子に身近な例をさしはさんで理解をたすけることができますね。しかし、それを下手にうるさくしては、また余計なこととなりましょう。
矢島──欲をいえば、子供の読むものには一通り母親が目を通して置いて欲しいと思います。読んできかせなくてもそうすると日常の生活の中に、それに関連したことが出て来たとき、この間読んだことはこういうことだと話してやることが出来ますから。
羽仁──本当にそうですね、電車の中ではどうせ難しいものは読めないのですから子供の本を読むことにしたらよいかもしれません。私の最初の読書の興味のことを考えてみましても、忙しい私の母が、夜になると私のために読んでくれた、ディッケンスの「少女ネル」人道主義的なそのおはなしの印象でした。
子供の本の紹介
羽仁──母親の希望のなかに、平易にかかれた子供の本の紹介がぜひ欲しいというのがありました。新聞で取扱っている書評は実用的でなく母たちは不満のようです。図書新聞とか読書新聞とか(いずれも週刊新聞、書店にある)いう読書のための専門新聞があるわけですが、もっと直接母親の役に立つ批評があればよいと思います。
矢島──書評となると気取ったものが多く、ごくやさしい本の紹介は少ないですね。
中井──殊に子供のものは少ない。
羽仁──実際的で教育的な批評が欲しいと思います。現在はなかなか家計も楽でありませんから、経済的にも制限をうけている。それだけに母親としては、いい本を選択したいという傾向が強くなって来ています。これは大変よいことだと思います。学校図書館を利用しているところでは家で持っている本の傾向とちがった本が読めるので傾らなくていい、また欲しくても買えない本を見せて貰えることが有難いと感想を書いています。
中井──学校図書館が整備されて、そこにいい本が売れるということになりますと、出版社の方では目安がついて安心していい本を作ることが出来るようになります。図書館協会が毎月良書を選んで基本図書として図書館に推薦するようにすれば、選択する人の労力も省け、またその本に印刷したカードをつけるようにして、整理する人の手間を省く工夫も出来ましょう。必ず五百冊位は売れるという責任が持てれば、企画に対しても注文ができるわけです。そして忍術ものを出さなくてもすむようになると思うのです。批判するよりは機構を作ることが必要なのです。
矢島──全くそうですね。
羽仁──質問の中に、どんな傾向の本でもよい本なら読ませてもいいでしょうかというのがありましたが。
中井──よいというのが問題ですね。皆がよいというから、ベストセラーだからそれがよい本とは決まっていませんしね。何か人気か評判がたかいと、その本を読んでいないと教養がないとおもわれるかというわけで読んでみる。それでベストセラーズともなるのですし、本の値打ちについては、各人がもっと研究的に書評などを参考に自分自身の判断を持たなくてはなりませんね。
良書をすすめることは図書館協会あたりの責任です。ここの推薦したものなら間違いないというところまでゆかなくてはならないわけです。
羽仁──子供の雑誌や、子供の本に同情のある批評家が少ないですね。意外にいいものでも簡単に片づけられてしまいます。
矢島──真面目に考えられていないのですね。読書新聞などでときどきとり上げてはいますけれど計画的に考えられていない。
中井──今の出版計画は水の深さをはからずに、いきなりぶつかって見るくらいのことでやっている。私共はこれを和冠戦法をよんでいますが、和冠戦法からレーダー(電波戦法)にまで進歩しなければ駄目だと思うのです。調査機関をもった研究所があってじっくり研究しなくてはなりません。となりの出版社を倒せばよい、そうすれば自分が儲かるというような考え方は間違いです。協力して、子供の出版について研究すべきです。まだまだ佐々木高綱と梶原源太で、抜がけの先陣争いばかりしています。
羽仁──よい読みものが保護されなくてはなりませんね。一つよい企画があるとすぐ似たようなものが計画される。共倒れになってしまっています。出版の方でなくて読者の方にだんだん研究的な組織がもたれているようです。いわゆる中央に出来る読書組合式のお座なりなものでなく、地方で熱心に本の紹介などをされている方たちがあります。これは愛知県の岡崎ですが、田中浩三先生という小学校の校長先生が、熱心に読書紹介をされています。
こんどの調査のなかでも、母親たちが、子供の本のなかに子供たちの習わない漢字を多く使っているということを指摘していました。
矢島──出版が権威を持たず、著者まかせでそれらについて十分な注意をしないからです。中学生文庫というのを一つ見ましたが随分難しい漢字を使っています。
中井──それは本を読ませる側に一番大切なことでしょう。今の子供が一体どういう形で文字及び本を受け入れているか、本当は出版研究所というものがあって、間断なく今の子供の実態を研究する必要があると思います。一冊本が出る、それがどう子供に受け入れられたかを知るのは次の出版のため大切なことです。
羽仁──次の質問は、クリスチャンの家庭らしいのですが、限られたクリスト教出版社のものだけ読ませた方が良いかというのでした。
矢島──子供には、範囲を限らず広くした方がよいでしょう、子供は親が気づかない方面に才能を持っていることがよくありますから。
中井──母親のための読書相談が必要です。
羽仁──いろいろ参考になるおはなしをありがとうございました。
本文ここまで